「表現の不自由展・その後」が露呈させたのは、私たちがまさにファシズム的状況の回帰の中にいるという事実である。だからこそ、自由を求める表現者ならば、芸術の営みを価値中立性の幻想で包んで事態を収束さ


東浩紀氏が「表現の不自由展・その後」中止事件について「企画アドバイザー」の立場から釈明と謝罪:(link: https://www.j-cast.com/2019/08/08364619.html) j-cast.com/2019/08/083646… だが、ここでの氏の「芸術」と「政治」を切り分ける論理には根本的な疑問符をつけざるを得ない。→→現在、日韓間に「たいへんな外交的困難」があることを前提としたうえで、今だからこそ「焦点のひとつである慰安婦像に、政治的意味とはべつに芸術的価値もあると提示することには、成功すれば国際美術展として大きな意義があった」と氏は延べ、さらにカール・シュミットを念頭に置いて言う→→「政治が友と敵を分けるものだとすれば、芸術は友と敵を繋ぐものです。〔…〕これはどちらがすぐれているということではなく、それが政治と芸術のそれぞれの役割だと考えます」と。→→ある作品に「政治的意味とはべつに芸術的価値もある」や「政治と芸術」に「それぞれの役割」があると言うことは、いっけん芸術作品の自律性を擁護するかのようでいて、その実、芸術からそれが持ち得る政治的意味と効果を消し去り、友愛の美名のもとに芸術を無害化する発言にほかならない→ファシズムの台頭を前にしてかつてベンヤミンは「ファシズムが進めている政治の耽美主義化」に対して「コミュニズムは、芸術の政治化をもって応えるのだ」(「複製技術の時代における芸術作品」1935/36年)と書きつけた。→→「表現の不自由展・その後」が露呈させたのは、私たちがまさにファシズム的状況の回帰の中にいるという事実である。だからこそ、自由を求める表現者ならば、芸術の営みを価値中立性の幻想で包んで事態を収束させず、逆に「芸術の政治化」を抑圧的公権力に突きつけることこそが必要なのではないか。