成功したスポーツ選手が優れた人格者であるはずだというのは誤った度し難い幻想率直なところ「彼の強い向上心というものは、権力志向や差別意識というものと、どこかで結びついているのかも知れません。」っていう某

差別的発言をしたと批判することと、同時に差別主義者であると直結させてしまう人が結構いるな。そういう「0か100か」思想こそ「あらゆる差別の根絶を目指す運動」に悪影響を及ぼすと思うのだけれど。それを踏まえると、あれは差別発言ではないと、無理筋でもがんばってしまう心理は理解できるけど、ちょっと苦しいというか、webに過剰適応してしまっているというか。ところで私自身はそこまでは思わないけど、イチローレイシストだと何か都合が悪いのか?結論ありきの主張をしてないか?例えば、「イチローの発言は差別的だと思うが、反差別に悪影響を及ぼすので批判しない」ということであれば戦略性は理解できなくもない。批判は当然するが。妻にこの話題をしたところ、成功したスポーツ選手が優れた人格者であるはずだというのは誤った度し難い幻想。そもそもすごく性格が悪そうと反応された次第。まあ性格のよしあしの話ではないんだけどね。まあでも、率直なところ「彼の強い向上心というものは、権力志向や差別意識というものと、どこかで結びついているのかも知れません。」っていう某氏の言葉は丁寧な表現だが、かなり強い批判になっているとは思う。差別的な人格と能力を結びつけているからな。無関係と言っているのとは違う。差別的人格とその能力が不可分なのかもしれない、と言ってるわけなので、これはかなりきつい。差別主義者だと認定した、というのは筋違いだが、多分それよりも悪い。体育会系に対して、というよりも奥深い、休み時間に球技とかしてても運動神経のいい奴って変に高圧的で、まあインドア人間のスポーツ嫌いってこれぐらいまで遡れると思うんだけど、実体験「だけ」の印象だとスポーツマンって性格悪そうという偏見はあるわけ。体育会系に対して、というよりも奥深い、休み時間に球技とかしてても運動神経のいい奴って変に高圧的で、まあインドア人間のスポーツ嫌いってこれぐらいまで遡れると思うんだけど、実体験「だけ」の印象だとスポーツマンって性格悪そうという偏見はあるわけ。多分、「我々」のスポーツマンに対する敵意をおそらく、そうでない人間たちは理解していない。もちろん当のスポーツマンも。高校球児がさわやかと表現されることがある。非常によくある。でもそれはそういった価値観を前提にしているからだろう。曇り無き眼で見定めれば、野球しかしてない眉毛を沿ったハイティーン男子なんぞ、まったくさわやかとは思えない。まあ、この手の偏見をキレイな言葉で表現したら、もっとドキツクなったってのが、なうちゃんの例の発言だよ。でまあ、スポーツ観戦となると裾野が広がるのがやっかいなところで、別に大したこともない平凡でつまらん人生の喜怒哀楽のアンプリファイアーとしてのスポーツ、剥き出しの感情が絡むので、ナショナリズムと接続されるとかなり怖いのはたしかだな。この、感情が解き放たれた状態について、ナショナリズムがどうの差別がどうのと言われたら、それは不快だろうとは思うけどね。でも、統制された一体感のような快感はかなり慎重に取り扱われるべきだと思うんだよ。知らないうちに動員されたり、それに加担したくないだろ?