オルテガ 著(寺田和夫訳)『大衆の反逆』 中央公論新社 2002年刊(原著、1930年)


オルテガ 著(寺田和夫訳)
 『大衆の反逆』 中央公論新社 2002年刊(原著、1930年)



大衆》ということばを、とくに労働者の意味で理解してはならない。それは社会の一階級をさすのではなく、今日の社会のあらゆる階級のなかに見られ、それゆえに、大衆の優越し支配しているわれらの時代を代表する人間の種類、あるいは存在のあり方を示している。これから、その証拠をたっぷりお目にかけるとしよう。 今日、社会的力を行使している者はだれか。この時代にみずからの精神構造を押しつけているのはだれか。いうまでもなくブルジョアジーである。では、このブルジョアジーのなかで、もっともすぐれたグループ、つまり現代の貴族と考えられているのはだれか。疑いもなく専門職、つまり技師、医者、金融家、教師などである。この専門職の集団のなかで、最高の位置を占めてもっとも純粋な形でかれらを代表する者はだれか。もちろん科学者である。(中略)


「むかしは、人間を、知者と無知の者、あるいはかなりの知者と、どちらかといえば無知である人に、単純に分けることができた。ところが、専門家は、この二つの範疇のどちらにも入れることができない」。「無知な知者」が多数生じるわけだが、「事は重大」だ。「というのは、この人は、自分の知らないあらゆる問題にたして、ひとりの無知な男としてではなく、自分の特殊な問題では知者である人間として、気どった行動をするであろう」

私が大衆的人間の特徴として繰り返しあげた、《人のいうことを聞かない》、高い権威に従わないという性格は、まさに部分的な資質をもったこれらの専門家たちにおいて、その頂点にまで達する。かれらは、今日の大衆による支配を象徴しており、また、大衆による支配の主要な担い手である。

オルテガは分かりやすいたとえで、「《慢心した坊ちゃん》の時代」と述べて、「大衆的人間の心理構造」について述べている。世襲貴族にたとえられている。貴族の子弟もそうなりがちなのだが、自分が引き継いだものを自分自身が努力して得たものであるかのように錯覚してしまうのだ。そこで、「大衆的人間は、生は容易である、ありあまるほど豊かであり、悲劇的な制限はないというふうに、心底から、生まれたときから感じており、したがって、各平均人は、自分のなかに支配と勝利の実感をいだいている」という。人間には何でもできるという楽観がアメリカを先導者とする20世紀の文明に底流にある。そういえば、原子力利用もまさにこうした楽観の中から起こってきた。原子力利用は《慢心した坊ちゃん》の科学技術と言ってよいかもしれない。

「大衆的人間の心理構造」として次にあげられているのは閉鎖性だ。「そのこと(支配と勝利の実感をいだいているということ)から、あるがままの自分に確信をもち、自分の道徳的・知的資質はすぐれており、完全であると考えるようになる。この自己満足から、外部の権威にたいして自己を閉鎖してしまい、耳をかさず、自分の意見に疑いをもたず、他人を考慮に入れないようになる。たえずかれの内部にある支配感情に刺激されて、支配力を行使したがる。そこで、自分とその同類だけが世界に存在しているかのように行動することになる」

自由主義は「最高に寛大な制度である。なぜならば、それは多数派が少数派に認める権利だからであり、だからこそ、地球上にこだましたもっとも高貴な叫びである。それは敵と、それどころから、弱い敵と共存する決意を宣言する。」これは大いに反自然的なことだ。だが、「こんな気持のやさしさは、もう理解しがたくなりはじめていないだろうか。反対者の存在する国がしだいに減りつつあるという事実ほど、今日の横顔をはっきりと示しているものはない」

うぬぼれと閉鎖性に続いて、暴力性が加わる。「慎重も熟慮も手続きも保留もなく、いわば、《直接行動》の制度によって、すべてのことに介入し、自分の凡庸な意見を押しつけようとする」こと。正常な未開人は宗教、タブー、社会的伝統、習慣に従う「従順さ」をもつが、大衆は「反逆する」未開人であり、オルテガは《野蛮人》とよぶ(119頁)。 その《野蛮人》の特徴は当時、台頭しつつあった共産主義無政府主義ファシズム等の政治運動やある種の芸術運動などに見ている