、「韓国宮廷料理と違ってしっかりした伝統のある懐石」+「ちゃぶ台で家族団らんが日本の伝統なのにそれが失われている」+「海外のアレンジ寿司(カリフォルニアロールなど)に微妙な目線」というトリプルコンボ。





みなみさんが早川タダノリをリツイートしました
世界遺産になった食文化(WAVE出版)の和食編、「韓国宮廷料理と違ってしっかりした伝統のある懐石」+「ちゃぶ台で家族団らんが日本の伝統なのにそれが失われている」+「海外のアレンジ寿司(カリフォルニアロールなど)に微妙な目線」というトリプルコンボ。ほるぷ出版までも読んじゃダメな本を…
ブースカちゃんさんがみなみをリツイートしました
我が家はもともと米問屋が本家なのですが、戦前の食卓は箱膳だったと聞かされており、ちゃぶ台なんて伝統でもなんでもないことを子供の頃から知らされているんですが、ウヨった脳みそだと歴史を簡単に捏造してしまうんですよねえ。
(´・ω・`)
早川タダノリさんがブースカちゃんをリツイートしました
服部幸應が「美しい日本の憲法をつくる国民の会」へのメッセージでじしんの改憲論の基礎づけとして「日本国憲法がちゃぶ台の団らんを破壊した」論を展開しているのを、しつこく考証した原稿を6月に出る『まぼろしの「日本的家族」』(青弓社)で書きましたのでなにげに宣伝。
☆確か、卓袱台が、流行し始めた話は夏目漱石の小説にあったような記憶がしたのですが、やはりありました。清水美知子氏の論文
夏目漱石の小説『門』にみる明治末期の中流家庭-〈下女〉のいる暮らし-」

2.2 食卓(ちゃぶ台)をめぐって
この作品でもうひとつ注目すべき生活財は,「ちゃぶ台」である。宗助の家には,近所の道具屋で買った「食ちゃぶだい卓」がある。『門』にはこの「食ちゃぶだい卓」を囲んでの食事の場面がくり返し取り上げられている。紙幅の都合によりここでは,3カ所に限って紹介しておこう。小六が数年ぶりで宗助の家を訪れた日,ふたりは一緒に銭湯に行った後で夕飯の食卓につく。「宗助と小六が手拭を下げて,風呂から帰って来た時は,座敷の真中に真四角な食卓 0 0 0 0 0 0を据ゑて,御米の手料理が手際よく其上に並べてあった。‥(中略)‥兄弟は寛いで膳に就いた。御米も遠慮0 0無く食卓についた 0 0 0 0 0 0 0 0 21)」。引用文では「真四角な食卓」とあるだけで「ちゃぶ台」とは記されていない。目を引くのは,御米も「遠慮無く」食卓についたという表現で,ここから宗助と御米が仲の良い夫婦であることがわかる。小六が障子の張り替えを手伝った日,御米は小六と差し向かいで昼食をとる。「小六が引き移ってから此四五日,御米は宗助のゐない午飯を,何時も小六と差向で食べる 0 0 0 0 0 0 0 0 0ことになった。宗助と一所になつて以来,御米の毎日膳を共にしたものは,夫より外になかった。夫の留守の時は,ただ独り箸を執るのが多年の習慣であった。‥(中略)‥御米は小六と差向に膳に着く 0 0 0 0 0 0 0ときの此気ぶつせいな心持が,何時になったら消えるだらうと,心の中で私に疑った22)」。食卓ではなく「膳」という語が使われているが,二人が「食ちゃぶだい卓」に差し向かいで食事していることは明らかである。同居の気苦労から御米は床についてしまう。御米は小六のために起きて一緒に食事をする気力はなかった。「小六は六畳から出来て,一寸襖を開けて,御米の姿を覗き込んだが,御米が半ば床の間の方を向いて,眼を塞いでゐたので,寝付いたとでも思ったものか,一言の口も利かずに,又そっと襖を閉めた。さうして,たった一人で大きな食卓を専領して 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0,始めからさらさらと茶漬けを掻き込む音をさせた23)」。ひとり寂しく茶漬けを掻き込む小六にとって,小さな「食ちゃぶだい卓」が大きく感じられたのであろう。
都市に暮らす小家族の習慣として「ちゃぶ台」の使用が始まるのは,明治30年代から40年代のことである。それまでは,箱膳,銘々膳で食事をするのが普通だった。箱膳・銘々膳からちゃぶ図2 台ランプの例出所:『漱石全集』第6巻,657頁- 69 -夏目漱石の小説『門』にみる明治末期の中流家庭台への移行は,一般には,封建的な序列を重んじる家族から民主的で平等なイメージの家庭への変化と捉えられる。食卓を囲むという行為は,一家団らんの象徴でもあった。しかし,『門』においては,宗助と御米のささやかな幸せの象徴である「食ちゃぶだい卓」が,夫婦関係の不調や日常生活の破綻を表わす小道具としても使われている。ところで,この作品では〈下女〉の清が一緒に食卓につく場面は見られない。宗助たちの食事中,清は食器を下げたり湯茶の用意するなど,指示があればすぐに動けるよう台所に控えていた。そして,「下女部屋を覗くと,清が自分の前に小さな膳を控えたなり,御櫃に寄りかかって突伏してゐた24)」という一文に示されるとおり,食事は下女部屋において一人でとった。下女はあくまで使用人。明治末期には身分意識が色濃く残っていたのである。

以上引用

「こころ」の中にも卓袱台出てきてますね。
「(ちゃぶ台を)今では何処の宅でも使っているようですが、その頃そんな卓の周囲に並んで飯を食う家族は殆んどなかったのです」