日本で急速に進む「宗教の観光利用」の危うさに気づいていますか

日本で急速に進む「宗教の観光利用」の危うさに気づいていますか「政教連携」なんていうけれど…

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54478

神社非宗教論は、戦後になっても間欠泉的に盛り上がり、その度に法学者だけでなく、宗教学者が注意喚起してきた。終戦から10年も経たないうちに、堀一郎は「神社神道の位置 復古調のお先棒排せ」(読売新聞1954年3月24日朝刊)を寄稿している。堀は、神社界の指導者たちが神道信仰を発揚し、国民を教化し、政治や文化のあり方に対して神道の立場から主張するのは当然だとする。しかし、「それが『夢よもう一度』といった安易な復古調のお先棒をかつぐ事であってはならず、さらにあやまれるナショナリズムの中心にせり出して、再び昔日の悔いを繰り返す」ことは戒めるべきだとしている。堀がいう「夢」とは何か。簡単に言えば、明治期に神社が非宗教とされ、そうであるがゆえに政教分離に反せずに、事実上の国教として特権的位置に置かれたことだ。堀がこの論説を書いた当時も、神社非宗教論が蒸し返されていた

小口が批判するのは、神社を取り巻く強制力だ。個々人の信仰とは無関係に、「個人の意思では容易に脱却しえない社会的、環境的な力が作用」する。小口は、宗教集団が存続するために「地域社会に依存するのは、最も安易な方法」だが、地域依存は、宗教の意味を自ら消し去ることであるとし、神道民族宗教として温存しようとする傾向を批判する。

井門によれば、世界のあらゆる地域には宗教があり、それぞれのナショナリズムと結びついてきた。日本では「神道とかかわりあう自然宗教が日本人の深層心理に眠っている」。そして、靖国神社は、こうした文化的背景を利用して、明治政府が金をかけずに国民を政治と戦争に動員するために作り上げた人工的装置であるという。井門は、靖国神社に祀られることに意義を見出した民衆の気持ちを軽視することもできないとしつつも、政府による靖国神社支援は、政教分離という近代国家の基本を侵すものであり、さらには政権交代があればどうなるかわからないという点で、国家支援は何ら靖国神社の永続を保証するものではないと批判するのである。


神社非宗教論の危うさ

神社非宗教論はことあるごとに復活してきた。世界遺産登録などでもはや紋切り型となった「日本人の宗教の本質は自然そのものの崇拝であり、したがって日本人は自然と共生的で寛容であり、神道はこうした宗教的自然観に形式を与えただけである」といったタイプの主張は、神社非宗教論の現代版と言ってよいだろう。しかし、先にみたように、神社非宗教論は自己の宗教性を否定する危うい主張である。政教分離は宗教を迫害するためのものではない。政治と宗教の領分を明確にすることで、信じない自由と信じる自由の双方を保証するのだ。森岡の問いかけにあるように、「神社は習俗や文化伝統であって宗教ではない」という主張は、神道を信仰する人の宗教的信念を踏みにじる。政教分離はそもそも「恐れる」ものではないのである。神社仏閣は歴史的に地域の核となってきた場合が多く、有力な観光資源になりうる。そして現在、観光も地域全体で取り組むべき重要課題とみなされるようになっている。つまり、宗教と観光が一体となって地域を動員する形が生まれやすくなっているのだ。しかし、筆者はすぐに軍靴の音が聞こえてくるタイプではないつもりだが、政教分離という近代国家の基本原則が観光化という意外な文脈でなし崩しに侵されることには注意を払う必要があると考える。