特集「中動態の世界」 第二部 「失われた「態」を求めて」國分功一郎講演(荻窪・Title)

特集「中動態の世界」 第二部 「失われた「態」を求めて」國分功一郎講演(荻窪・Title)
「僕らは能動と受動の対立を当たり前のものと思っています。実際、たとえば英文法の授業でも、態には能動態(Active Voice)と受動態(PassiveVoice)があり、そしてそれしかないと習います。ところが言語を研究していくと、実はこの対立はそんなに昔からあるものでもないということが分かっていきます。かつては能動態と受動態の対立とは違う対立、能動態と中動態の対立というのがあったからです。何らかの理由で後者から前者への変化が起こった。それはなぜなのか? その変化の歴史の意味について考えたい。




能動と受動の対立を先ほどのスピノザウィトゲンシュタイン的発想から見てみると、これが「意志」を強調する対立であることが分かります。というのも、この対立は常に人の行為について、「お前はこれを自分でやったのか? それともやらされたのか?」と尋問してくるからです。僕はこれを「尋問する言語」と呼んでいます。中動態が失われたというのは何を意味するかというと、意志を強く問う言語、尋問する言語が登場したということだと思います。ではなぜ意志にフォーカスする言語が出てきたのか? 意志の概念を使えば、行為を人に帰属させることができます。つまり「これはお前がやったことである。なぜならお前はこれを自分の意志でやったからだ」というわけです。行為の帰属によって何が可能になるのかというと、責任を問うことが可能になるのです。つまりこの言語は責任を問うことを可能にしている。非常に興味深い事態なんですが、中動態をまだ有していた古代ギリシア語には、意志に相当する単語がありません。古代ギリシアには意志の概念が存在しないのです。アリストテレスの哲学にも意志の概念がありません。意志というのは決して普遍的な概念ではないのです。