安倍昭恵氏と籠池諄子氏、メール会話の読みどころ/白井聡

安倍昭恵氏と籠池諄子氏、メール会話の読みどころ

14年4月、小学校予定地にて仲睦まじく記念撮影(4月30日菅野完氏FBより)。

友人に助けを求める諄子夫人、「祈り」で応える昭恵夫人

森友学園の籠池諄子前理事長夫人と安倍昭恵首相夫人のメールのやり取りが印象深い。2月24日に安倍首相が「(籠池理事長は)非常にしつこい」と発言した後、諄子夫人の言葉のトーンは上がる。「安倍総理には失望しました」。
お金のやり取りをめぐって諄子夫人の言葉は憤りさえはらむようになる。昭恵夫人の「私は講演の謝礼を頂いた記憶がなく」との言葉に対して、諄子夫人は「あまりにひどい」と応える。3月に入り学園への包囲網が狭まるなか、諄子夫人は「小学校は 支払いができず(中略)閉めます 主人も私も失業します」と嘆き、「小学校をやめ 幼稚園は 破産(中略)お父さんは詐欺罪 あんまりにも 権力を使うなら死にます」とさえ述べる。
昭恵夫人の言葉には、「神様は何を望んでいるのでしょう」「祈ります」といった表現が増え、公表された二人のやり取りは、昭恵夫人の「(安倍首相が寄付したと籠池側が主張する)100万円の記憶がないのですが」という言葉で終わる。

昭恵夫人は自由奔放か?

昭恵夫人は、「家庭内野党」などと評され、自由奔放な言動が注目を浴びてきたが、ここにそのすべてが現れているのかもしれない。この時期に渦中の相手と直接連絡を取るとは、まさに自由奔放である。
しかし、本質はそこにはない。肝心のお金の件に話が及ぶと、発言は慎重そのものとなる。諄子夫人が自分たちの身の破滅にまで言及しても昭恵夫人が「記憶がない」で通すのは、100万円の件を認めれば安倍夫妻が破滅するからである。だから、ここで昭恵夫人が実質的に言っているのは、「あなた方が破滅するにしても、私たちは破滅するわけにいきません」ということだ。これまで友人として交流してきたはずの二人の運命は、根本的に異なるほかないのだ。その理由の説明はない。ならば、われわれはそこに「身分の違い」を読み取るほかない。
昭恵夫人の突飛な言動は常に善意に基づいている、と巷間評されている。おそらくそうなのだろう。他人を疑わず何事も善意ベースで受け止める性格は、育ちの良い人の特徴である。物議を醸した高江訪問も、森友学園への肩入れも、すべて善意から生じた。そしてその善意は、自らの行動が社会的文脈において持つ意味に対する徹底的な無頓着と表裏一体となっている。無論、自らの分別に対してかくも無頓着でいられるのは、特別な階層の人間だけである。

善良にして無知なる人々

筆者は想像する。数々の革命で倒された王族・貴族の多くは、昭恵夫人のように善意に満ちた人々だったのであろうと。貧窮者を目にして涙しながら、一族が栄えることと国家が栄えることは完全に同じことだと信じて疑わなかったのであろう。これらの人々の善意が下らないのは、国家を私物化していた彼らの存在こそが、彼らが同情を寄せる不幸の原因にほかならないことを知らず、ゆえに不幸を救うために特権を廃止しようなどとは、夢にも思わないからである。歴史の教えに従えば、これらの善良にして無知なる人々は取り除かれなければならない。けだし、地獄への道は善意で敷き詰められているのだから。
※本稿は「京都新聞」4月27日夕刊に掲載されました。