安倍首相謹話の「慎んで」

安倍首相謹話の「慎んで」
三笠宮さまが亡くなられた日に安倍晋三首相が発表した「謹話」の最後に「国民と共に慎んで心から哀悼の意を表します」とありました。

首相官邸のサイトから抜粋
「つつしんで」は「謹話」の字が示す通り「謹んで」が適切でしょう。「慎んで」だと「控えめにする」という意味、と2014年の文化庁「『異字同訓』の漢字の使い分け例」に記されています。


「漢字の使い分けときあかし辞典」(円満字二郎著、研究社)にも「他人を重んじる場合には、その意味合いをはっきりさせるために、《謹》を用いる」とあります。「慎んで」が「謹話」としての字にふさわしくないことは明らかです。


実は首相談話の「慎んで」のおかしな使い方はこれが初めてではありません。例えば
遠い戦場に、斃れられた御霊、戦禍に遭われ、あるいは戦後、遥かな異郷に命を落とされた御霊の御前に、政府を代表し、慎んで式辞を申し述べます。15年8月15日 全国戦没者追悼式式辞

本日ここに、天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、全国戦没者追悼式を挙行するにあたり、政府を代表し、慎んで式辞を申し述べます。16年8月15日 全国戦没者追悼式式辞

と、ここ2年の戦没者追悼式の首相の式辞に「慎んで」が使われました。

ちなみに野田内閣(12年6月6日)小泉内閣(04年12月18日)の時の謹話には「謹んで」が使われています。


フロイトの「精神分析学入門」では、言い間違いや書き間違いと、本人の深層心理との関連が述べられています。いや、安倍首相が本心では「謹んで」ではなく「控えめに」という気持ちがあるから「慎んで」の字となって表れた――なんて邪推するつもりはありません。第一、首相みずから書くとはとても思えませんから。しかし誰が書いたにせよ、間違いが発生する場面のフロイトの分析は参考にしてもよいかもしれません。
よくみられる書きまちがいは、一般にそれを書くことに気のりがしていないこと、または早く書き終えてしまいたいという焦慮があることを暗示しています。(懸田克躬訳、中公文庫。一部略)

これまでも首相官邸ホームページの首相談話などでは、直したい漢字がよく見られます。

今年1月の施政方針演説での「食べ物が底を尽き、何度も困窮しました」の「尽き」は「突き」が適切であること。


14年1月の施政方針演説同年3月の東日本大震災追悼式式辞での「水揚げに湧く漁港」の「湧く」は「沸く」が適切であること。


13年の全国戦没者追悼式などの「能(あた)うる限り」は「能う限り」が適切であること。これは最近直ってきています。


いずれも、ブログやツイッターで取り上げましたが、「細かいことで揚げ足を取るな」と反発の声をいただきました。でも、校閲としては許しがたい。新聞記事で引用する場合、そのまま記すか直すかで深刻なジレンマにさらされるのです。「ママ」と付記して原文のままにすればいいという意見も多数ありましたが、新聞ではそういう対処はしていません。

ですから、そのまま記すか、あえて直すかで各紙の対応が分かれることもありますし、同じ新聞でも前の版と後の版では違うこともあります。

毎日27日夕刊の遅版(左)と早版

10月27日の毎日新聞夕刊では早版で「慎んで心から哀悼の意を表します」だったのを、協議のうえ後版で「謹んで……」に直しました。ところが、その経緯をツイッターで発信したところ、「遅版」となるべき漢字を「遅番」と誤ってしまいました。先のフロイトの説ではありませんが、「早く書き終えてしまいたい」という焦りがあったのかもしれません。

安倍晋三首相が三笠宮さまの訃報を受け発表した「謹話」の最後に「慎んで心から哀悼の意を表します」。「慎んで」は「控えめに」との意味なので「謹んで」が適切でしょうが、発表通りに書くかどうか夕刊各紙対応が割れました。毎日新聞は早版で「慎んで」だったのを、遅番で「謹んで」に直しました。