和解という名の暴力 ─ 朴裕河『和解のために』批判(徐京植)



植民地主義の暴力 「ことばの檻」から 徐京植=著(高文研)
 今年は「韓国併合100周年」です。朝鮮を植民地にした歴史と向き合う絶好の機会ですが、現在の日本社会は、在特会在日特権を許さない市民の会)による朝鮮学校襲撃事件や高等学校学費無償化の対象から朝鮮学校を除外すべきだという主張が公然と行われています。このことは、朝鮮を植民地化して100年経った今でも、朝鮮人に対する蔑視が日本社会の底流にあるからではないでしょうか。

 著者の徐京植氏は「あとがき」で以下のように述べています。
 これほど明白に理不尽な状況を前にして、リベラルで良識的なはずの日本国民多数は、なぜ「高見の見物」を決め込んでいるのか。それは、私がこの二〇年余、問い続けて来たことだ。その問いへの回答を、本書中の「『和解』という名の暴力」という一文で試みてみた。こうした現象は、私の考えでは、日本のマジョリティに偏在する「国民主義」を背景として「継続する植民地主義」が表面化したものである。「在特会」など一部の問題ではない。
 今年は「韓国併合一〇〇周年」だという。植民地支配の開始から一〇〇年。歴史がなんであれ、事実がどうであれ、「北朝鮮」と結びつけさえすれば、どんな暴言も差別も許容される社会が実現された。解き放たれた敵意は、その被害者である在日朝鮮人ばかりでなく、日本人自身をも確実に蝕んでいる。植民地主義というものは、こんなにも大きな、取り返しのつかない傷と歪みを残しながら、さらに継続し、増殖するのである。


 多くの日本人は、「戦争責任」以上に「植民地支配責任」を避けて通ろうとします。この問題を隠ぺいしようとすればするほど、日本人の思想的頽廃が進むのではないか。この問題に一人でも多くの日本人に向き合ってほしいと思い、企画編集しました。

(真鍋かおる)