ホロコーストはなかった」「慰安婦はいなかった」「在日は特権を持つ」これらはすべて、偽の事実を提示することによって「議論」に持ち込み、「議論があるから結論はまだ出ていない」とすれば目的の半ばは達成できる


現代の歴史修正主義レイシズムフェイクニュースを見ると、そのすべてが「議論」の存在を正当性の担保にしていることがわかります。議論の余地のないものについて「議論がある」とすることによって、真実を覆い隠す。つまり「議論」は手段ではなく目的そのものだと言ってよい。






ホロコーストはなかった」「慰安婦はいなかった」「在日は特権を持つ」これらはすべて、偽の事実を提示することによって「議論」に持ち込み、「議論があるから結論はまだ出ていない」とすれば目的の半ばは達成できる。安倍政権の改憲「議論」も、同じ仕組みのものです。つまり、正しいメタ議論によって偽の「議論」をいかに否定できるかが今重要なのであって、「議論そのものを否定」は別に全体主義的でも悪いことでもないです。「議論があるのはいいことだ」は、すでに無効なインターネット時代以前の古い価値観です。このツイートのコメント欄が今の「議論」の標準です。論点逸らしレッテル貼り揚げ足取り捏造人身攻撃、国会での自民のぐだぐだ答弁や安倍の民主党連呼、ニッキョーソニッキョーソ!って野次を見てもわかる通り、これは日本の標準。「議論はいいことだ」といえるレベルにない。安倍の「改憲の議論」なるものも、まさにこのレベル。ここで戦車は車か否かというどうでもいい議論を延々とやってるうちに、さて時間なので採決ーとなる。玉木雄一郎が「広告量制限は必要だ」とか言ってるのは、まさに車か否かの無駄論争を彷彿させる。