納税額の低い人を「税金泥棒」と見なす社会は、どう克服されてきたか

納税額の低い人を「税金泥棒」と見なす社会は、どう克服されてきたか/石川 敬史

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/65447

啓蒙思想とは、上で見たような人間存在の桎梏(しつこく)から個人を解放する思想である。17世紀から18世紀にかけて展開した啓蒙思想の系譜をここに書き連ねる紙幅はないので、我々はジョン・ロックに簡単な説明を求めよう。ロックは『統治二論』の「第一論文」において、最初の人間アダムの子孫に対する父権を根拠とする王権神授説を否定した。父の罪(現世における功績)が子に引き継がれないのだとすれば、身分という概念は原理的に消滅する。彼は「個人」を析出したのだ。そして「第二論文」において、自然状態という、法や社会ができる前の状態を思考実験し、個々の人間が生まれながらに持っている権利(自然権)を特定した。まず人間が人間であるための権利として「生命」が挙げられよう。しかし、かりに生まれたその瞬間に地下牢に幽閉されて老衰するまで飼育されていたならば、生命に実質はない。生命が生命であるためには、「現れる」ことが必要だ。だとすると「自由」も生命に当然付随する権利であるはずである。しかし生命と自由は、それだけでは実質化しえない。親の庇護化にある子供が、権利の十全な担い手となることができるだろうか。すると、「財産」が必要になる。すなわち「生命」・「自由」・「財産」が、人間が人間であるがゆえにもつ権利であるということになる。ちなみに、ロックが特定した自然権が、十分に考えられたものであることは、現代の刑法の仕組みを思い出せばよく分かる。人間の自然権を抑制する刑罰は、すべて「生命」・「自由」・「財産」に関するものである。これらの自然権は、神によって人間に「等しく」与えられたものであり、もちろん納税の対価ではない。そしてロックの「第二論文」の革命性は、ここから始まる。共通の権利を持つ人間(中世にはこの概念自体がなかったか、せいぜい曖昧であった)は、本来は統治権力を必要としない。しかしながら、この人間の権利は、しばしば恣意的に侵害されるのである(中世がそうだった)。そこで理性を有する人間は、各人が生まれながらに持つ自然権保全するための警護者を創設することにした。これが「社会契約」による国家の創設である。すなわち国家とは、社会契約の当事者となった人間(国民)の自然権保全するためのものであり、中世に見られた「特権」の発生を抑制する体系なのである。かりに国家が国民の自然権の警護者たりえなかった場合は、国民は「天に訴える」権利を留保する。社会契約を結び直すのだ。これを革命権という。
人間の権利は、ただ抽象的に認識するだけではいけない。我々が野蛮な実存から脱するためには、啓蒙の原則にもとづいて国家を再編しなければならない。18世紀後半の市民革命はその端的な事例だが、革命に隣接した諸国もそれぞれの経緯で国民国家を採用していくことになった。それは統治原則における近代化を意味していた。お分りいただけるだろうか。国民国家とは、本質において、市民の最低限の幸福と社会支援を約束する福祉的(welfare)なものであり、それはアメリカ合衆国ですらその憲法の前文で認めているところである。国民国家とは、実力者たち(例えば貴族)の特権や、聖職者の教権(来世の賞罰を餌にした脅迫)に対して、人間が生まれながらにしてもつ権利を保全するための仕組みなのである。それ以外の国家形態は、国民に対する簒奪行為なのである。
人類の歴史には、様々な国家の形態が存在してきたのであり、国民国家というのは、ユーラシア大陸の片隅のヨーロッパで近代に誕生したものであるに過ぎない。しかしながら近代とは、無数の国家のモデルから、この国民国家を採用する営みであったことを忘れてはいけない。
我々は、部族国家も、教権国家も、中世の制度化された暴力支配も選ばなかったのである。