言論の自由にせよ、報道の自由にせよ、とかく戦後はその全てが「許されている」という発想をしがちだ。だが一体「誰が」許すのか。民主主義社会において、この「誰」は他ならぬ自分。だからなんでも許されているとい



言論の自由にせよ、報道の自由にせよ、とかく戦後はその全てが「許されている」という発想をしがちだ。だが一体「誰が」許すのか。民主主義社会において、この「誰」は他ならぬ自分。だからなんでも許されているというのではなく、どんなことを語る自分でありたいか、自由はこうした問いとともにある。ネットの匿名性が嫌われたが、会社に守られている一人一人の記者も、名乗らぬならなお悪い。民主主義社会において、一方的に裁くだけの存在はありえない。加害者にも被害者にもなりうる同じ人間として、自分なら何を語るか、言論に与る人間には、その問いがより強く投げかけられていると思ってほしい。言論の自由にせよ、報道の自由にせよ、とかく戦後はその全てが「許されている」という発想をしがちだ。だが一体「誰が」許すのか。民主主義社会において、この「誰」は他ならぬ自分。だからなんでも許されているというのではなく、どんなことを語る自分でありたいか、自由はこうした問いとともにある。