大多数の日本人は「ノンポリ」であることを公平で客観的であることの証拠のようにぼんやりと誤解しているので、政治的立場を鮮明にするだけでそのメッセージの伝播力は削がれてしまう。広告のプロである糸井氏が「無

僕は放射線に関しては専門家じゃないし、早野龍五氏らが出してくるデータや計算については批判・検討する能力などない。しかし東電や政府を絶対に批判しようとせず、安全とは言い切れぬはずのことまで安全と断言する早野氏の言動には、高度な政治性と胡散臭いものを感じてきた。だがそのことを指摘すると「科学に政治を持ち込むな」だの「福島の敵」だの「科学オンチは黙っていろ」などと四方八方から激しくバッシングされて驚いた。科学に政治を持ち込んでいるのは早野氏の方なのに、分かりやすい政治的言説を避けて客観性を装うのが巧妙なので、無色透明のように見えてしまう。この見えにくいけど存在する「無色透明の政治性」が、実に厄介なのだと思う。それは早野氏と組んだ糸井重里氏にも共通する。彼は自らの高度な政治性を、ノンポリ的トーンや一般的に「政治的」と言われる言説を徹底的に避けることで覆い隠す名人である。だから彼に対する批判は党派的に見えてしまう。大多数の日本人は「ノンポリ」であることを公平で客観的であることの証拠のようにぼんやりと誤解しているので、政治的立場を鮮明にするだけでそのメッセージの伝播力は削がれてしまう。広告のプロである糸井氏が「無色透明の政治性」の広告的効用を熟知し使いこなせるのも、考えてみれば当然である。実際には、「ノンポリ」とは高度に政治的な立場である。例えば「政府が推進する原発再稼働に賛成か反対か」と問われたときに、ノンポリを自認する人は「賛成でも反対でもない」などと答えるかもしれない。だがそれは実は政府方針の「容認(黙認)」を意味する。つまり再稼働に加担している。それは辺野古でもそうだ。埋め立てについて、少数の賛成派と少数の反対派がしのぎを削っている横で、「ノンポリ」を自認する大多数の主権者は沈黙を守っている。彼らはどちらにも肩入れしていないつもりだろうが、沈黙していれば確実に辺野古は埋め立てられる。その逆はない。