戦争神経症の話は、不登校にもつながっています。国府台病院の児童精神科医長をされていた渡辺位さんは、登校拒否を個人病理とみるのではなく、学校状況のあり方の問題として捉えたのですが、そこには戦争神経症から


山下耕平さんが稲葉剛をリツイートしました
意外に思われるかもしれませんが、戦争神経症の話は、不登校にもつながっています。国府台病院の児童精神科医長をされていた渡辺位さんは、登校拒否を個人病理とみるのではなく、学校状況のあり方の問題として捉えたのですが、そこには戦争神経症からの気づきがあったということでした(続)。以下、渡辺位さんの講演録からの引用です(連投します)。
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私が勤めていた国府台病院は、戦時中は陸軍病院でした。戦争するために兵役に服することになった人たちが戦争神経症になったり、銃弾を受けて神経系を侵されたりした方たちの精神神経系の治療をする病院でした。あの当時は、国民は天皇制国家を護持するための人的資源とみなされていた。戦争に行けば命をかけて戦うことが至上命令。「大日本帝国の臣民」というタテマエを果たさなければならない。しかし、人間は命ある生き物で、長生きしたいとか、家族と別れたくないとか、いろいろな感情がある。でも、国のタテマエに合わせなければ、この国の国民として生きていかれないという義務感との分かれ道のなかで、葛藤が起きれば、神経症が起こるわけですね。考えてみれば当然のことです。登校拒否・不登校と関わりはじめて、ふと気がついたのは、この戦争神経症の話でした。登校拒否と考えられる多くの子どもたちと接しているうちに、これは戦争神経症と同じようなことではないかと思いはじめたんです。神経症になったら、戦場では戦えない。そのために命だけは救われる。自分でそうしようと思うより、意識下の生き物としての命の声がその人にそういう行動をとらせている。表面の意識では一生懸命戦って「天皇陛下のために死のう」と思っていても、命としてはそうさせなかったわけです。そこで、子どもだって生き物なんだから命があるんだと、当たり前のことに改めて気づいたんです。子どもにとって学校との関係で、そういう事態が起こるのだとすれば、学校とは何なのか。学校の日常が戦争といっしょとまでは言わなくても、どこか生き物としての子どもがその子どもであろうとするのを脅かすような場所なのではないか。もしそうであれば、戦争神経症と同じようなことが起きてもおかしくないのではないか。そういうところから学校を見直してみると、学校がいかにおかしなことになっているか、よく見えてきたんです。(略)国家は、戦争が始まったら兵隊になるような考え方を持たせるし、経済成長が始まれば産業戦士に育成していく。学校は、そういう考え方を植えつけていくためのシステムにすぎないのです。以上、「不登校は文化の森の入口」渡辺位さん講演録(2002.09.08/フリースクール・フォロ)より。下記に講演録のPDFデータがあります。