政治的リアリズムと超国家丸山眞男の国際政治思想から現代日本を読む五野井郁夫

[1]政治的リアリズムと超国家

丸山眞男の国際政治思想から現代日本を読む
この「三たび平和について」の全面講和論の本当の狙いは何かというと、じつは片面講和論に対しては、自由主義の側とだけ手を結んで、こういった世界政府論を唱えていくことにはくみしません。というのも丸山ら全面講和論者は、将来またふたたび超国家主義ファシズムが出てきたときに、自由民主主義と共産主義が共同でファシズムに対処するという、本来、第2次大戦でなされたようなイデオロギーを超えた人類の敵に対する共闘というのができなくなってしまうのではないかと危惧したわけです。だから実はアメリカを中心とした自由主義だけではなくて、ソ連とも全面講和をするほうが、本来のファシズムを根絶やしにするという目的に照らして、最もリアリスティックだということを説いたのです。一見、理想主義的でリベラリズムの側だとされる「三たび平和について」なのですが、実はけっこう、将来のファシズム再興の可能性に対処すべく、過去の第2次大戦時の共同対処を意識してつくられたものだったというわけです。


「できる」ことと「すべき」ことの混同 

日本の国家主義というものを丸山は当然、天皇制国家として読み解いていくわけですけれども、ここにおいては、国家権力と先進的な権威というものが「国体」の名のもとに同一化していく。これによって権力と倫理、要するに、「できること」と「すべきこと」の混同がされていったことが問題だったんじゃないかと批判していったわけです。丸山というと「である」ことと「する」ことが有名ですが、ここでは、「できる」ことと「すべき」ことのほうに注目してみましょう。例えば、ここに水の入ったグラスが置いてあるとして、私の手はここまでしか伸びないわけですね。これが「できる」ことです。他方、「すべき」ことというのは、例えば「水を飲まねばならい」とか、「飲みたい」とていう感情があるんですね。感情と物理的な我々の限界というのは一致しないわけですけれども、実はファシズムというもの、超国家主義というものは、自分ができることと、「すべき」ことやしたいことっていうものを混同させる効果があるんじゃないか、と丸山は説いているわけです。そしてそれがなぜ日本において、そのような国全体がファシズムに没入していったのかということを説いていったわけですね。