民主主義考 白井聡さんが語る安倍政治(上) 国家権力の腐敗と本質

民主主義考 白井聡さんが語る安倍政治(上) 国家権力の腐敗と本質

ミサイル着弾にそなえ、小学校に「避難」する訓練。(写真:時事通信社
朝鮮半島危機があぶり出したもの
実際に日本に対してミサイル攻撃がある可能性は現時点ではほぼないと考えている。最も頼りになる指標は、在韓米人に対して退避指示を米政府が出していないことだ。1994年に米クリントン政権北朝鮮の核開発を止めようと考え、先制攻撃した場合の被害を試算した。だがその数字があまりに膨大だったため「北の核開発問題」の武力行使による解決を断念し、今日に至る。
いま試算すれば当時よりも大きな被害が算出されるだろう。従って普通に考えれば北朝鮮への先制攻撃などあり得ない選択だ。だが、トランプ政権のとる方向性はいまだ不透明だ。硬軟いずれをとるにせよ、従来とは異なる仕方で行くと宣言している。
仮に戦端が開かれたならばどうなるか。北朝鮮と韓国を隔てる国境、38度線ではソウルに向けて砲台が並べられている。日本へ向けられた弾道ミサイルの基地も複数ある。先制攻撃となればまずそこをたたくことになるが、もちろんつぶし切れない。
核兵器の小型化にどの程度成功しているか定かではない。毒ガスや細菌兵器の開発も進められている可能性がある。日本への報復攻撃があれば、数万人~数十万人が犠牲になる恐れもある。
こうした話をしていると、とても虚しくなる。何が虚しいか。それは、私たちの運命の根本部分を米国の決断が握っているという事実に直面するからだ。同時に、私たち自身がそうした状態に自らを追い込んできた。米国に支配され、かつ支配された状態に依存してきたのだ。
そこで安倍首相の発言の重大な意味を考える必要がある。
トランプ大統領は「全ての選択肢がテーブルの上にある」と言った。そこには先制攻撃という選択肢も含まれるわけだが、安倍首相は躊躇なく「支持する」と言った。それは、「私たちには犠牲を払う覚悟がありますよ」という決意表明にならざるをえない。だが、いつ私たちはそんな覚悟について相談されただろうか。一度たりともそんな相談を受けていない。安倍首相は、国家と国民の運命そのものを勝手に売り渡した。
■能天気のツケ
これまで、在日米軍は重要であり、日米安保体制を強化しなければならない、という主張のために「北の脅威」は常に引き合いに出されてきた。確かに、さまざまな側面で北朝鮮という国家は常軌を逸している。だが、だからといって、米国に頼ればよいとする姿勢がいかに能天気であったかということがいま突き付けられている。そのツケを最悪の形で払わされかねないという状況は去っていない。当座の危機が去ったとしても、それで「めでたしめでたし」という話では全くない。朝鮮戦争がいまだ終わっていないという異常な状態に、東アジアの諸国民がどうやって決着をつけるのかという難題を直視しなければならない。
ところが政府は何をやっているか。各地でミサイル対策の避難訓練をしている。馬鹿丸出しである。ミサイル攻撃にさらされたとき、公民館に逃げ込んだところで何の意味があるのか。竹槍でB29を落とそうとしていた頃から進歩ゼロだ。こういう無意味なことをやることの目的はただ一つで、支配者に盲従する自分の頭で考えないロボット人間を作るためである。しかも、多数の自治体が自ら進んでこの恥ずかしい訓練に取り組んでいる。レジーム(体制)全体が劣化し、腐りきって朽ち果てるのを待つのみ、という現在の政治状況を映し出している。
■消失する民主化
これは何もなかったところから、いきなり腐り始めているわけではない。明治以来の国家権力の本質が表出し始めているという見方の方が正確だ。この国の国家権力が民衆の自立的な活力を信頼することによって社会を成り立たせようとしたことは一度たりともない。
1945年の敗戦によって民主化されたというは全くの嘘だということ。敗戦のショックと占領という究極の外圧によって、権威主義的な政治が一時的に薄らいだだけのことだ。民主主義を形だけ標榜する政治は70年余りを経てその本来の姿に戻りつつある。
■「愚民」の選択
しかし、何も為政者のみが悪いのではなく、このような状態を許容しているのは、究極的には国民大衆だ。昨年7月の参院選の際、神奈川新聞が実施したアンケート結果を見て私は衝撃を受けた。質問は、参院選で焦点となっている「3分の2」の意味を知っていますか-。100人に聞いたところ67人は「知らない」と回答したという。憲法改正を発議するためには「両院それぞれ3分の2以上の賛成」が必要という数字であり、今後安倍政権が進めたがっている改憲論議を踏まえれば、参院選の最も重要なテーマだったはずだ。
だがおよそ7割の有権者はそのことを認識していなかった。正論を言えば、こんな状況下で普通選挙をやっている事の方が間違っている。
かつて制限選挙が当たり前だった時代の普通選挙導入論に対する批判は、「判断力のない人々(愚民=貧乏人と女性)に選挙権を与えたら、ろくでもない政治家を選ぶので危険だ」というものだった。貧しい人や女性には判断力がないという考え方は間違っているが、しかし判断力がない人間に参政権を与えるのは不適切、という論理はもっともである。
だが、普通選挙制度は導入された。ではかつての批判にどう答えてきたのか。最も筋の通った反論は、「判断力が未熟な場合があるとしても、人は判断力を高めるべく努力するはずだ」というものだ。
今日の惨状をみたとき、この反論は成り立つのか。人口の大多数が義務教育の年限を超えて教育を受けているはずなのに、最低限の政治知識も持ち合わせていない。それは要するに、公民たろうとする意思がないということだろう。あるいは、地方に行けば投票先について「うちは昔から代々ずっと○○先生に決めていますから」という話をよく聞く。現に未熟であるだけでなく、その自覚もない。
戦後日本の民主主義が成功したかのようにみえたのは、経済成長によって社会が安定していたからにすぎない。民衆の政治的成熟度の点では、日本はアジアの最後進国に成り下がりつつある。
※本稿は5月18日「神奈川新聞」朝刊に掲載されました。