日本をオセアニア国にしてはならない。(自民党閣僚及び自民党議員より上の知性派の読み物)


知性派の読み物<安倍晋三は本能的に身につけている将軍様なので読む必要は無い。かと言って、共謀罪さえ理解も説明も出来ない自民党閣僚や自民党議員の知能では理解不能な高尚な記事>
 
 
「日本をオセアニア国にしてはならない」
 
戦後70年悪夢の時代(現実)
二番煎じ政権:安倍晋三の信念を支えるもの
知性への反逆
白人・知性・マザー・学歴コンプレックスの克服
民主主義社会(論理)の破壊
ワンマン経営社会=独裁への執念
第一次政権の怨念晴らし=権力を笠に国民への復讐
現在の日本の状況
        共謀罪改憲終了後)
世界(国際社会)からの孤立(排斥)
完全北朝鮮
念願の戦争=安倍晋三の大願成就
日本国の終篤
<以下教訓記事>
 
 
 
「戦争は平和なり/自由は隷従なり/無知は力なり」
 『代替の事実』で真実の捏造
 
 

  
 ~日本をオセアニア国にしてはならない (週刊新社会)

ノートルダム清心女子大教授 綾目広治

 ◆ 管理社会の不気味さ
 旧ソ連や旧東欧社会主義政権が存続していた頃には、ジョージ・オーウェルの小説『一九八四年』(1949年刊)はそれらの政権が維持する社会体制を風刺した小説として受け止められることが多かつた。
 しかし、旧ソ連スターリニズムに対する批判は、オーウェルの政治寓話小説『動物農場』(1945年刊)の方に、より端的に語られていて、『一九八四年』はスターリニズムを標的とした小説として限定的に捉えるべきではないだろう

 むしろ、『一九八四年』で描かれている全体主義的な管理社会の不気昧な実相には、すでに私たち人類が通り過ぎたファシズムスターリニズム、さらには日本の軍国主義などの過去の政治狂会体制よりも、今後の未来世界に現出するかも知れない社会のあり方が描かれていると読める。


 『一九八四年』はそれなりの分量の小説であるが、物語の筋書きは簡単である(なお、同書からの引用は早川書房『1984年[新訳版]』〈2009年、高橋和久訳〉による)。

 -オセアニア国に住む主人公のウィンストン・スミスは、〈ビッグ・プラザー〉が率いる「党」の「真理省記録局」に勤務する党員で、歴史の改竄(かいざん)が仕事であった。
 彼は完壁な服従を強いる体制に以前より不満を抱いていて、違法ではないが、もしその行為が発覚すれば、「死刑か最低二十五年の強制収容所送りになる」行為、すなわち「日記を始め」たのであった。そこには「党」への批判なども書かれていた。
 しかし、個人生活をも完全に掌握しようとする「党」の監視から逃れることはできず、やがてスミスは逮捕され、〈党中枢〉の人間であるオブライエンの「指導」のもとで拷問を受け、反抗の意志を失う。

 この国では反抗の意志が無いだけでは不十分で、体制を熱狂的に支持しなければならなかった
 物語はこう終わっている。「闘いは終わった。彼は自分自身に対して勝利を収めたのだ。彼は今、〈ビッグ・ブラザー〉を愛していた。」、と。-

 もっとも、小説はこれで終わっておらず、附録「ニュースピークの原理」、すなわちオセアニア国の公用語であるニュースピークについての構造や語源についての解説が付されているが、そのことよりも注意されるのは、オセアニア国における政治体制において文字通りの欺瞞が罷り通っていることである。
 たとえば、真理省の建物には「党」の三つのスローガンが掲げられ、そこにはこう謳われている。
 「戦争は平和なり/自由は隷従なり/無知は力なり」、と。

 本来ならば矛盾したり、そぐわない語同士が結びつけられている。しかし、そのことに人々が疑義を覚えないのは、彼らが「二重思考」の訓練を受けて精神が馴致されているからだと言える。

 ◆ 「黒を白と言い切る」
 厳密には、「二重思考とは、ふたつの相矛盾する信念を心に同時に抱き、その両方を受け入れる能力をいう」のであり、だから「意識的な欺瞞を働きながら、完全な誠実さを伴う目的意識の強固さを保持する」わけである。

 たとえば「故意に嘘をつきながら、しかしその嘘を心から信じていること、都合が悪くなった事実は全て忘れること」をするわけである。

 そうなると「黒を白と言いきること」もできるだろうし、「過去は党が如何ようにも決められる」ということになる。

 もちろん、「党」は無謬である。たとえ、誤りがあったとしても、それは「二重思考」によつて誤りの事実を忘れ、新たな事実を信じればいいのである。
 こうして「党」の支配は、揺るぎないものとなっていく。
 オセアニア国のあり方は私たちの近未来社会という面があるが、すでに今、幾分かオセアニア国と同様の事態に近づいている。

 宰相安倍晋三が3年前に<軍事力拡充による積極的平和主義>ということを盛んに語った。本来は、平和学者ヨハン・ガルトゥングが用いた「積極的平和主義」という言葉は、単に戦争が無い〈消極的平和〉ではなく、貧困や入権抑圧などの〈暴力〉が無い状態を指している。
 安倍は、その原義をねじ曲げて用いたのである。

 「黒を白と言いきること」は日本が有数の子どもの貧困大国にもかかわらず、2016年1月の国会で安倍が「決してそんなことはない」と強弁したことにも表れている。
 実は、日本とともにアメリカもオセアニア国の様態に近づきつつある。

 ◆ 行き着く先は野蛮な管理社会
 『一九八四年』のオセアニア国では「黒を白と言いきること」が普通に行われていたが、トランプの言動にも同様にその事例を見ることができる。
 たとえば、前大統領オバマの出生地疑惑が問題視されて、オバマは出生証明書を公表するという事態にまで発展した。しかし、それで決着したかというと、今なおその証明書は偽造されているとする疑念がくすぶっているらしい。これはトランプが出生地疑惑をまさに執拗に言い立てていたからである。
 ジャーナリストの佐藤伸行は『ドナルド・トランプ 戯画化するアメリカと世界の悪夢』(文藝新書、2016年8月)の中で、このことに触れて、「嘘も繰り返せばそれは真実になる」というナチスの宣伝相ゲッベルス流の古典的な情報操作の手法を(トランプは応用していると述べている。

 つまり、「「トランプの世界」では、事実に重みは置かれていない」わけである。
 このことに関しては、やはりジャーナリストの金成隆一『ルポトランプ王国-もう一つのアメリカを行く』(岩波新書、2017年2月)で、「トランプは、平然とウソを繰り返すなど、事実へのこだわりも見せない。(略)有権者がウソや擬ニュース、誇張された話にさらされる時、民主主義は困難を迎えるだろう」と指摘している。
 実際、そうである。トランプの問題は、つまるところ人々がこれまで築き上げてきた民主主義社会を突き崩すのでは、というところに帰着するであろう。
 また佐藤伸行は先の書で、アイビーリーグの名門校であるペンシルバニア大学の大学院ウォートン校を主席で卒業したとトランプは言っているが、ウォートン校は卒業生の成績順位を公表しない方針であるため、トランプの自己宣伝が真実か否かを明らかにすることはできない、と述べている。
 そして、誇張と虚偽情報、あるいは真偽不明の情報の流布は、トランプのは半生に太い軸として貫かれている」、と。

 ◆ 政権に都合の良い「オルタナティブ・ファクト」
 驚かされるのは、トランプの大統領就任式には、180万人集まったオバマ前大統領の時の3分の1しか集まらなかったと米メディアが報道したことに関しての話である。
 朝日新聞アメリカ大統領選取材班の『トランプのアメリカ 漂流する大国の行方』(朝日新聞社、2017年2月)によると、その報道に対してトランプは150万人いるように見えたと語り、ホワイトハウスの報道官は「これまでで最多の聴衆数だ」と強調した。
 メディアがそれは「ウソだ」と批判を強めると、今度はコンウエイ大統領顧聞がオルタナティブ・ファクトだ」と言いきったのである。
 「オルタナティブ・ファクト」、すなわち「代替の事実」「別の事実」ということであるが、こうなると真実を如何様にもまさに捏造することができるだろう。

 オセアニア国では「党」の都合のいいように歴史の改竄が行われていたが、トランプ王国では最近の出来事も「オルタナティブ・ファクト」という詭弁を用いて改竄されるのである。
 また、オセアニア国の三つのスローガンの内、「無知は力なり」というのがあったが、トランプは文字通りにそれを実践していて不正確なデータ、誤解に基づいた認識を堂々と語り、過ちを指摘されると、先に見たような「オルタナティブ・ファクト」論で話を有耶無耶にしてきたのである。

 なぜトランプのような、本来なら泡沫候補として消えていったはずの知的に低級な人物米大統領になることができたのか。
 その背景には「白人」対「マイノリティ・移民」、「地方」対「都市」、「低学歴」対「高学歴」という根深い対立構造アメリカ社会にあること、その対立をデマゴーグ的な才能では一級のトランプがうまく利用していったということがあるだろう。
 その政治手法は見え透いた低レベルのものであっても、あのオセァニア国の「党」の統治手法と本質面では通じていることに、やはり注意しなければならないだろう。
 その行き着く先は、手法は洗練されているが、そしてその本質はとてつもなく野蛮な管理社会である。

 昨今の日本の政治社会動向も、オセアニア国と同じ方向に向かっていると言える。オセアニア国では四六時中監視されている人々は、実際に行動に移さなくても表情などで、反抗の意志ありと認定されれば監禁されたのだが、閣議決定された共謀罪も実際の犯行ではなく、その準備段階だと認定されれば罪になるのである。
 日本をオセアニア国にしてはならない。
 
 
 
 


 ※ジョージ.オーウェル 1903年6月25日~1950年1月21日、イギリスの作家、ジャーナリスト。生まれたのはインド・イギリス植民増時代のことだった。本名エリック・アーサー・ブレア。数年間、ビルマ(現在のミャンマー)の警察を経験し、放浪生活を経て作家となる。主な著作に小説『動物農場』、スペイン内戦の体験を綴ったルポルタージュカタロニア讃歌』などがある。『一九八四年』(1949年刊行)は、全体主義の国家管理体制社会を鋭く批判している。20世紀、文学だけでなく思想・政冶に大きな影響を与えた。

『週刊新社会』(2017/4/18・25)


パワー・トゥ・ザ・ピープル!! パート2