前回、「教育勅語」は大日本帝国憲法と両輪として構想され、「国民皆兵」を基礎に据える近代日本国家の軍制備に必要不可欠な精神訓として整備された経緯を見ました。
 さて、ここで改めて考えて見ましょう。
 日本という国を考えるうえで、この「国民皆兵」という考え方は、善くも悪しくも画期的なものでありました。
 どうしてか?
士農工商という言葉があります。徳川幕府260余年を通じて、刀剣の類を身に帯びた「武士」が支配階級であって、その下に農民も職人も商人もかしづいた。
大名行列などの類に「頭が高い」とやられると、地べたに土下座させられるのは珍しいことでなく、無礼があれば斬り捨てご免、実に理不尽な体制が長く続きました。
 それが「四民平等」と呼ばれるようになる背景は何であったのか?
 江戸時代、「士農工商」で武士とされた人々の軍備は刀や槍、弓矢や馬が中心で、鉄砲飛び道具の類は微妙に卑怯、集団戦法などは邪道であって、
 「やぁやぁ遠からんものは音に聴け、近くば寄って目にも見よ」
 式の、牧歌的な果し合いが主流であって、宮本武蔵でも清水一角でも、剣士個人の技量がものをいい、また召抱える側からしても、個人として優秀なサムライへの評価が高かった。
 それではいけない! そんなことでは欧州列強の侵略、植民地支配に対抗してはいけない、というのが大村益次郎こと村田蔵六の考え方で、そこから国民皆兵の発想も、東京招魂社、つまり後の靖国神社に至る発想も生まれてきたわけです。
 この考え方の源流を探訪してみましょう。

「個性」不要の近代軍備

 「太平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船) たった四杯で夜も眠れず」
 とは「黒船」こと蒸気船で来航したペリー一行の開国要求に右往左往する江戸幕府を揶揄した狂歌で、「じょうきせん」は宇治の上等のお茶の銘柄。カフェインの強い喜撰と蒸気船4艘とをかけて、たかだか4つ黒船が来ただけで幕閣が上を下への大騒ぎをからかったものでした。
 ところで、なぜ、黒船が来たとき、幕府首脳はそこまであわてたのか?
 答えは「大筒」つまり大砲にあります。ペリー艦隊4隻の軍事装備を見てみると
旗艦 サスケハナ号 10インチ砲3門 8インチ砲6問
ミシシッピ号 10インチ砲2門 8インチ砲8問
プリマス号 8インチ砲8門 32ポンド砲18問
サラトガ号 8インチ砲4門 32ポンド砲18問
 と、単純計算しただけで70門近くの大砲を山積みした真っ黒の船が江戸湾沖にお城を狙う形で入港したわけですから、夜もおちおち寝ておられず、幕閣はまさに「たった四杯で」の状況になってしまった。
こんな近代軍装備の前で「やぁやぁ、遠からんものは・・・」なんて名乗りを上げていても意味はありません。チュドーンとやられればおしまいです。
 近代軍備に個人的な武勇に優れた英雄は必要ないのです。それは軍備対軍備の戦い、装備に勝った勢力が、いずれは敵を圧倒してしまう、ある意味でまことにつまらない戦争になったと言えるかもしれません。
 そこで必要とされるのは・・・個性的な剣客、佐々木小次郎柳生十兵衛の勇猛ではなく、小銃何丁を持った何個小隊がどのように布陣しどう展開するか、というウォーゲーム的近代戦だったのです。
 個人対個人の戦いではなく、装備によって決定される、いわば確率的な戦いで、最終的には期待値に勝る側が勝利を収めるという、没個性的な兵法。
 古典的な果し合いとしての優雅な日本型合戦ではなく、装備さえ揃っていれば、それを操作する兵隊の個性はほとんど問われることがありません。かつて織田信長が鉄砲を大規模に導入し勝利を収めて天下人となった「長篠の戦」を大規模に再現するようなものでした。
 こうした経緯を冷静に見つめていたのが、靖国神社の創設者、医師で兵法家の村田蔵六でした。

国民皆兵靖国神社

大村益次郎こと村田蔵六は卓越した語学の力と不屈の意思をもって独学で西欧兵法を学んだ傑物でした。
 と同時に、十分醒めた合理的な思考のできる人物でもあった。敵の戦力が自ら消耗するのを待つ、被害が大きいと想像される場所に薩摩兵を配し、それによって薩摩の恨みを買って最後は暗殺される、といった説が根強く囁かれるのも、そうした冷徹さに起因することかと思われます。
村田蔵六は、武士がプライドをかけて固執していた個人対個人の戦いを完全に否定して、19世紀欧州のグローバルスタンダードで軍事を思考することができました。
戊辰戦争、上野の山の彰義隊討伐に当たって、村田は見通しのよい昼間に敵を消耗させ、午後になって敵が疲れてきたあたりのタイミングから近代火器である「アームストロング砲」を撃ち始めます。
 これは鍋島藩が有田焼や伊万里など、東洋の白ダイヤとして高く売れた磁器を外貨産物として手に入れた近代火器であったと思われます(私たち佐賀の人間はこのあたりに敏感です)。
 こんなものをぶっ放された日には、いかに佐幕派が勇猛だろうと、白虎隊のローティーンが決死の覚悟をしようと、ひとたまりもありません。
 古典的な日本武士の兵法に依存しがちだった同僚が「戦いが夜に及んでは・・・」と心配するなか、村田蔵六は全く動ぜず、懐中時計を見ながら「夕方には終わるでしょう」と落ち着いていたそうです。
 果たしてアームストロング砲、いまで考えれば「ボム」ですね、これが炸裂し始め、日が傾くころ上野の山で火の手が挙がると
 「もう終わりました」
 と江戸城の物見から平然と言い放ち、その言葉のとおりに官軍勝利を伝える伝令が、前後して駆け込んできたそうです。
 兵力はすでに、「やぁやぁ遠からんものは音に聴け」という武士の専権事項ではなくなっていた。