「神道」理解のカギは室町時代にあり!吉田兼倶による神道理論の体系化、その意義とは?岩上安身による島根大学名誉教授・井上寛司氏インタビュー2日目(中世・近世編) 2016.11.23

神道」理解のカギは室町時代にあり!吉田兼倶による神道理論の体系化、その意義とは?岩上安身による島根大学名誉教授・井上寛司氏インタビュー2日目(中世・近世編) 2016.11.23



2016年11月23日(水)、島根県松江市島根大学にて、島根大学大阪工業大学名誉教授の井上寛司氏へ岩上安身によるインタビューが行なわれた。2日目は、中世・近世編としてお話をうかがった

7世紀後半、白村江の戦い(663年)で、百済遺臣軍とともに唐・新羅連合軍と戦い、大敗北を喫した倭国は、古代最大の内戦・壬申の乱(672年)を経て成立した天武・持統朝において中央集権体制を確立し、「日本」と名乗るようになった。「大王(おおきみ)」を、中国の皇帝に対抗しつつ差異化をはかるために「天皇」と号するようになったのも、この時期と考えられる。
 また、『古事記』『日本書紀』を編纂し、「天皇」家による「日本」支配の正当性を、「歴史(および神話)」の形を借りたイデオロギーによって確立しようと図ったのもこの時期だ。外征軍の大敗と大規模な内戦という2つの戦争が、倭国から「日本」への変貌を遂げ、「天皇」制を生み出す契機となったのである。しかし、その時期においてなお、「神道」はまだ確立していなかった、という。
 岩上安身は2016年11月22日に『「神道」の虚像と実像』の著者である井上寛司氏に単独インタビューを行い、中央集権化の過程で、「日本」という国号や「天皇」号、さらには「神社」までもが創出されていった経緯を聞いた。
 インタビュー2日目となる11月23日、話題は中世と近世へ展開。井上氏によれば、『古事記』『日本書紀』といった天皇神話の編纂や「神社」の創出によって確立された「神祇信仰」を、「神道」として成立させたのが、室町時代の神主・吉田兼倶(よしだ・かねとも)であるのだという。
■イントロ

「信仰」から「宗教」へ――吉田兼倶の理論化・体系化によりはじめて「宗教」となった神道

 学術的な定義によれば、ある信仰形態が「宗教」として成立するためには、「プラクティス(実践・儀礼)」と「ビリーフ(信条・教義)」の両面を備えていなければならない。井上氏は、古代以来の「神祇信仰」にこの両面を付与し、宗教としての「神道」を確立したのが吉田兼倶であったと説明する。
 「吉田兼倶が画期的だったのは、『唯一神道』として神道理論を体系化したことです。儀礼体系としての神祇道は古代から同様に続いているのですが、中世に入って『神々についての思想的解釈である神道神道教説)』が生まれ、それを統合するかたちで『吉田神道』が成立しました」
http://iwj.co.jp/wj/open/wp-content/uploads/2016/12/161123_352464_01.png京都市左京区吉田神社境内にある斎場。吉田兼倶の構想により、1484年に建てられた(写真:Wikipedia

 吉田兼倶は、『唯一神道名法要集』という書物で、『古事記』『日本書紀』に記述された天皇神話に対して思想的解釈を行い、神道教説を体系化した。7世紀後半に創出された「プラクティス」にこうした「ビリーフ」が加わることで、中国の仏教とは異なる宗教としての「神道」が、日本史上初めて成立したのだ。

 神道」は、大日本帝国において鼓吹されたような、古代(どころか神代)以来、変わることなく続いてきた「日本固有の民族的宗教」などではなく、中世にこそ成立したものなのだと、井上氏は説く。

対外侵略の肯定へと向かった「神道」~幕末における「国体論」の萌芽

 中世において、ようやく宗教としての条件を整えた「神道」だったが、近世に入ると時代の波に揺さぶられて、再び変化を余儀なくされることとなった。
 大日本帝国による侵略戦争を正当化した「国家神道」の思想が芽を吹き出す。この思想に決定的な影響を与えたのが、幕末における「国体論」の登場と流行である