安倍総理が伊勢神宮参拝 世俗の仮面をかなぐり捨てた神社勢力との危険な結合へ
安倍総理が伊勢神宮参拝 世俗の仮面をかなぐり捨てた神社勢力との危険な結合へ
安倍氏は、この時期に伊勢神宮を参拝しました。9閣僚も同伴だそうです。
「」(朝日新聞2016年1月5日)
伊勢神宮参拝も靖国参拝と同じように大問題です。
政教分離を定めた憲法20条3項「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」に真っ向から違反する行為です。
伊勢神宮だからこそ、靖国神社だからこそ大問題なのです。
憲法が政教分離を規定したのは、戦前の歴史的経緯からです。
戦前は、国家神道は特権的な地位が与えられ、宗教に非ずということで参拝が強制され、事実上の国教として扱われてきました。
他の宗教は迫害され、戦時体制の下では弾圧も受けています。
宗教と国家が一体化することは、政治を歪めてしまう危険性が大きいという一般論だけではなく、特に政権が国家神道との結びつきを持つことは、過去の歴史的経緯からみても到底、許されるものではないということです。
そして、今、神社本庁が中心となって、安倍政権が目指す改憲に呼応するように「自主憲法制定」というイデオロギーの下、全国での署名活動を展開させました。
「」
今まで世俗的なものと思われていた神社がついにその本性を露わにしたのです。
敗戦後、GHQによる神道指令により、国家神道の廃止と政教分離が実行され、これによって国家神道は「国教」としての地位から陥落しました。
天皇を元首とする政治体制の確立は、日本の反動勢力の一致する政治体制であり、(第2次)安倍政権の誕生により、神社勢力にとっては、復古的な「自主憲法制定」の好機ととらえたということで、だからこそ一斉に署名活動が展開されたのです。
もはや世俗的な仮面を脱ぎ捨て、露骨に国家神道の復活のために動き出した、その動きの中に、安倍氏や閣僚による伊勢神宮参拝が位置づけられるものです。
靖国神社であれば、諸外国、とりわけ中韓両国の批判があり、米国ですらも好まざる態度を示されることから、伊勢神宮参拝という方法がとられているわけです。
しかし、諸外国がどうあれ、日本国憲法に照らして許されざる伊勢神宮参拝を認めるわけにはいきません。
政教分離は、とりわけ日本の場合には神社という国家神道との癒着を断ち切ることを目的としたものです。
そして、神社勢力が世俗の仮面をかなぐり捨てた存在であり、それと安倍政権の参拝が結びついたのですから、安倍氏の参拝は危険極まりないものとして自覚されなければなりません。
「」(朝日新聞2016年1月5日)
伊勢神宮参拝も靖国参拝と同じように大問題です。
政教分離を定めた憲法20条3項「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」に真っ向から違反する行為です。
伊勢神宮だからこそ、靖国神社だからこそ大問題なのです。
憲法が政教分離を規定したのは、戦前の歴史的経緯からです。
戦前は、国家神道は特権的な地位が与えられ、宗教に非ずということで参拝が強制され、事実上の国教として扱われてきました。
他の宗教は迫害され、戦時体制の下では弾圧も受けています。
宗教と国家が一体化することは、政治を歪めてしまう危険性が大きいという一般論だけではなく、特に政権が国家神道との結びつきを持つことは、過去の歴史的経緯からみても到底、許されるものではないということです。
そして、今、神社本庁が中心となって、安倍政権が目指す改憲に呼応するように「自主憲法制定」というイデオロギーの下、全国での署名活動を展開させました。
「」
今まで世俗的なものと思われていた神社がついにその本性を露わにしたのです。
敗戦後、GHQによる神道指令により、国家神道の廃止と政教分離が実行され、これによって国家神道は「国教」としての地位から陥落しました。
天皇を元首とする政治体制の確立は、日本の反動勢力の一致する政治体制であり、(第2次)安倍政権の誕生により、神社勢力にとっては、復古的な「自主憲法制定」の好機ととらえたということで、だからこそ一斉に署名活動が展開されたのです。
もはや世俗的な仮面を脱ぎ捨て、露骨に国家神道の復活のために動き出した、その動きの中に、安倍氏や閣僚による伊勢神宮参拝が位置づけられるものです。
靖国神社であれば、諸外国、とりわけ中韓両国の批判があり、米国ですらも好まざる態度を示されることから、伊勢神宮参拝という方法がとられているわけです。
しかし、諸外国がどうあれ、日本国憲法に照らして許されざる伊勢神宮参拝を認めるわけにはいきません。
政教分離は、とりわけ日本の場合には神社という国家神道との癒着を断ち切ることを目的としたものです。
そして、神社勢力が世俗の仮面をかなぐり捨てた存在であり、それと安倍政権の参拝が結びついたのですから、安倍氏の参拝は危険極まりないものとして自覚されなければなりません。