いわゆる「保守派」は、「現実派」ではなく「幼児派」である

いわゆる「保守派」は、「現実派」ではなく「幼児派」である


11月16日、一人の元閣僚が世を去った。文部大臣や法務大臣を歴任した奥野誠亮氏である(享年103歳)。これを機に、長寿を全うしたこの人物のキャリアにあらためて注目が集まった。氏は、1913年に生まれ、38年に東京帝国大学法学部を卒業、同年に内務省に入る。戦後は、自治庁(当時)官僚となり、63年には自治事務次官に就任。同年、官僚を辞して自民党から衆議院総選挙に立候補、当選。以後13回連続当選し、72年に文部大臣として初入閣(田中角栄内閣)したのを皮切りに、2003年に政界引退するまでに法務大臣国土庁長官を務めた。
政治家奥野氏は、いわゆる保守派として鳴らした。憲法改正を積極的に唱え、「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の初代会長を務めた。国土庁長官の任にあった88年には、日中戦争に関して「あの当時日本に侵略の意図はなかった」との発言により舌禍事件を起こし、辞任に追い込まれている。いわゆる従軍慰安婦問題についても、商行為だったと言い切り、選択的夫婦別姓制度にも反対していた。
氏の経歴は、ひとことで言えば、日本のトップエリートのそれである。また、大戦末期には東京大空襲の現場で避難誘導にあたるなど、大変な修羅場をくぐった人でもある。そうであるがゆえに、いま奥野氏の在りし日の言動を見直してみると、筆者は、そこから受ける一種の「幼さ」の印象に驚きを禁じ得ない。
15年11月19日に日本記者クラブで奥野氏が行なった講演の映像をネット上で閲覧できる。100歳を超えた氏が一時間以上にわたって意気軒高に語る姿を見ることができるのだが、そこで語られるのは、「満州国五族協和の国だった」「靖国神社参拝が政治問題化されるのは理解できない」等々の不変の主張である。
奥野氏に代表される保守派の主張はしばしば、戦後希薄化しすぎた日本人の国家意識を適切なレベルまで再建せんとする「現実的」かつ「大人の」思考であると受け止められてきたし、今日その傾向は強まっている。
しかし、こうした考えほど馬鹿げた勘違いはない。どのような証拠を突きつけられても「我が国は決して悪くなかった」と言い募ることとは、幼児的全能感に固執することにほかならないからである。
奥野氏の態度が子供じみたものにすぎないことは、彼が終戦時に内務官僚として大量の公文書の焼却に関わり、そのことを恥じる気配もなかったという事実によって裏書されている。
その意図は、戦争犯罪の証拠を占領軍から隠すことにあった。この行為は、現在も歴史論争を混乱させる要因となっているという意味で禍根を残しているのだが、「奥野的」な保守派的主張ののっけからの破綻を運命づけている。「我が国に正義はあった」と確信するのならば、証拠を焼く必要はなかったはずである。「勝者が敗者の言い分を認めるわけがない」という言い訳は、到底成立し得ない。義を確信するのならば、「不当な罰」を受ける可能性を引き受け、いつの日か義が認められるよう証拠を残すのが当然の行為だったはずである。
ところが、このトップエリートは、悪さを咎められた時の子供のような態度を、1世紀以上生きてなお、取り続けた。12月12日に行なわれた「お別れ会」の実行委員長は、安倍晋三首相である。けだし適任であるに違いない。安倍政権も「議事録改竄」に手を染めてきたからである。つまり歴史の審判にさらされる勇気の欠如において奥野氏はまさに大先輩であり、現政権は嫡流なのである。
※この原稿は、2016年12月26日「京都新聞」夕刊に掲載されたものです。