努力してもムダな仕事が「若者の貧困」を生む大人は、高度経済成長期の感覚で物を言うな

努力してもムダな仕事が「若者の貧困」を生む

大人は、高度経済成長期の感覚で物を言うな

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もはや古き良き時代の「おとぎ話」が通用しない社会を、わたしたちは生きている(写真:zdyma4 / PIXTA
生活困窮者支援を行うソーシャルワーカーである筆者は、若者たちの支援活動を行っていると、決まって言われることがある。「どうしてまだ若いのに働けないのか?」「なぜそのような状態になってしまうのか?」「怠けているだけではないのか?」「支援を行うことで、本人の甘えを助長してしまうのではないか?」などである。
要するに、"若者への支援は本当に必要なのか?"という疑念である。これは若者たちの置かれている現状の厳しさが、いまだに多くの人々の間で共有されていないことを端的に表している。今回の連載を通して、「若者なんだから、努力すれば報われる」という主張など、ナンセンスであることを明らかにしていきたい。

「努力至上主義」も神話にすぎない

必死に努力しても、報われない社会が到来している。非正規雇用でどれだけ努力をしても、正社員になれない若者がいかに多いことだろうか。非正規社員の力や経験に大きく依存しながら、企業の経営や社会の存続が保たれているのにもかかわらず、「機械の歯車」のような位置づけである。若いうちは努力をするべきで、それは一時的な苦労だという考え方(努力至上主義説)も神話にすぎない。
取って代わるような人々はいくらでもいると言わんばかりに、企業は労働者を大切に扱わない。ましてや正社員化を進めようとしない。雇用は増え続けているが、もっぱら非正規雇用の拡大であり、その不安定な働き方に抑制が利かない。いかに人件費を削ればよいかということが企業目標にもなっており、若者たちの労働環境はこれまでにないほど劣化している。
このような労働環境の劣化を放置しながら、若者にただただ努力を求めるのは酷ではないだろうか。たとえば、ビジネスマンが目指す理想の企業経営者で有名な、京セラ・第二電電(現・KDDI)創業者の稲盛和夫氏は、「一日一日を懸命に生きれば、未来が開かれてくるのです。正確に将来を見通すということは、今日を努力して生きることの延長線上にしかないのです」(『成功への情熱─PASSION』PHP研究所)と述べている。
しかし、この時代にその考えは当てはまるだろうか。わたしは今日、このような努力至上主義を信奉することこそ、若者たちを追いつめていくと批判せざるを得ない。彼のように、企業経営者の中には少なからず、自身の成功体験もあるせいか、努力至上主義を主張する者がいる。
もちろん、努力が必要ではないと言っているわけでは決してない。わたしは努力をして「報われる労働」と「報われない労働」の2種類にハッキリ分かれることを確信しているのだ。この2種類があることを説明することなく、すべてにおいて「努力すれば報われる」と述べるのは、時代錯誤的、あるいは無責任であると考えている

熟練を必要としない単純作業の先にあるものは

こんなアルバイト作業を想像してみてほしい。
工場で1日8時間、ベルトコンベヤーで次から次へと運ばれてくる「あんぱん」に異常がないかを見定め、淡々と白ゴマを振りかけ、ひとつ流してはまた白ゴマを振りかけて流す─―誰にでもできる機械的作業であるため、低賃金で非正規雇用のアルバイト要員が交替で従事する。熟練を要しない単純労働で、その仕事内容が本人の成長や技術獲得、将来の生活の安定にどのように寄与するだろうか。どれだけ努力をし続けても時給は最低賃金で、その作業が毎日繰り返される。
そこにどのような展望を見出せばよいのか。ワーキングプア状態からどのように抜け出せばいいのか。「一日一日を懸命に生きれば、未来が開かれてくる」と本気でその労働者に向かって言い切れるだろうか。はなはだ疑問である。
とりわけ、熟練を要しない単純労働に従事している非正規雇用の労働者は、容易に仕事を辞めていく。将来のビジョンが見えないし、生活が安定しない、なおかつ自分以外の誰もができる仕事であるため、職業への愛着・帰属意識が育まれない。つまり、働いても報われる仕事だと思えないし、自分の能力を高めていくこともできない。このような仕事が非正規雇用を中心にして増え続けている。
同じく前掲書で稲盛和夫氏は、「本当の成功を収め、偉大な成果を生むには、まず自分の仕事にほれ込むことです」と述べている。古き良き時代を生きてきたとしか言いようがない。ほれ込める仕事とは、おカネを稼ぐだけではなくて、やりがいの感じられる仕事であり、創造的な、自分の個性を多少なりとも発揮できる仕事ではないだろうか。それによって、自尊感情や社会から認められたという意識も育まれ、徐々に自信や社会人としての自負を深めていくのだろう。
端的に言って、自分の仕事にほれ込むことができない労働条件や労働環境が増えている。これらの労働環境を考えることなくして、努力が一様にすべて報われるのだという「おとぎ話」が通用する時代ではもはやないことは繰り返し強調したい。若者たちは実態を見て、冷静に先人たちの言葉を解釈してほしい。すなわち、時代が違うので、昔話に決して惑わされないでほしいということだ。
高度経済成長期を支えた企業経営者の言葉から得られる教訓は、残念ながら時代遅れとなってしまった。あまりにも雇用環境が悪化し、理想や夢、将来を見通せて、報われる仕事に就ける人々は少数である。だからこそ、努力が報われようと報われまいと、最低限、普通に暮らせる労働環境を整える必要がある。

本当に努力するに値する仕事なのか

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『貧困世代 社会の監獄に閉じ込められた若者たち』(上の書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします)
つまり、仕事にほれ込まなくても、過度な努力をしなくても、労働者が普通の暮らしを送れるようにするべきである。それこそが現代の経営者にとって必要なはずだが、ブラック企業と指摘される会社を中心に、労働者へ過度な努力を要請する。その労働者の大半は数年で離職していき、ほとんどかなわないにもかかわらず、就職時にはしばしば何かしらの「夢」を抱かせる。だからこそ、離職したり、転職した際の挫折感も大きい。
強調しなければならないのは、いま就いている労働は、本当に努力するに値するものか否かを、貧困世代が冷静に見極めることである。
別の視点から考えてみよう。
懸命に努力を重ねて、大学を卒業して就職する際に、以前よりも相当に厳しい企業の審査の目に学生がさらされる。就職活動をしても、自分の希望する企業や就労形態で働くことができない。これは当たり前のことである。もともとあるべき多くの人々が希望する安定的な働き方という「座れるいす」の数が減っているのだから。
その少ないいすをめぐって、多くの若者たちは「がんばれ、がんばれ」と就職活動で追い立てられる。そのいすに座れなかった者たちは、努力が足りなかったせいだと思い込み、精神的に追い込まれてしまう。
1960年代ごろからの高度経済成長期を考えていただきたい。企業は必死の努力を今ほど若者たちに求めただろうか。誰でもいいから企業に入ってもらい、その後に定着できるように研修体制を整えていったではないか。若者たちを大切にして、福利厚生も整え、家族形成を助けたはずである。いずれも今はない過去の話になってしまった。労働者一人ひとりの価値が大きく低下している社会をわたしたちは生きている。