【「自己責任」論】 平野 啓一郎さん

【「自己責任」論】 平野 啓一郎さん

◆「存在の多様性」尊重を 
 「自己責任」という言葉を頻繁に耳にするようになったのは、2000年代の半ばくらいからである。長引くデフレと新自由主義的経済政策の下、当初は企業に対して「勝ち組」「負け組」と言っていたのが、いつの間にか個人の生活格差にまでそれが及ぶようになり、その後、「リア充」「非リア充」といった類語も生まれた。この時の「自己責任」論は、どちらかというと、「勝ち組」の擁護に力点が置かれていて、「負け組」とされた社会的弱者は、努力が足りないのだと指弾されていた。彼らの不幸は、「自業自得」だという、いわば“冷たい消極的否定”だった。
 しかし、昨今は、同じ「自己責任」論もトーンが変わってきている。日本の財政難が危惧され、社会的弱者は、税金を無駄に費やし、「真っ当に」生きている多くの国民に「迷惑をかけている」という“熱い積極的否定”が目に付くようになった。ここまで来ると、むしろ全体主義的である。
 生活保護をターゲットに、主に貧困層に向けられていたバッシングは、今や“医療保険を食い物にする「自己責任」の病人”にまで拡大している。次は一体、誰だろうか?
 財政問題は、大いに議論すべきだが、社会的弱者を、デマとヘイトに塗(まみ)れた暴力的な言葉で袋だたきにするというのは、今の日本人の精神的荒廃を露呈する醜悪な光景である。
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 社会学には、「スティグマ」という用語がある。個人の欠点や障害、犯罪歴、あるいは人種や国籍など、それ自体としては中立的であっても、他者の反感や差別意識を刺激し、その社会生活を困難にさせる属性の意味である。それはしばしば、「彼にある他の好ましい属性を無視させる」(アーヴィング・ゴッフマン)ことになる。
 「自己責任」論者は、人間をただ、国家の労働力としか見ない。が、人間は本来、多面的な存在である。少なくとも、経済学的に見ても、貧困層は限界消費性向の高い消費者でもあり、彼らに投入された税金は、食費や衣料費、あるいはささやかな趣味のために使用され、社会に必ず還元されるのである。
 もちろん人間は、それ以前に誰かの子であり、友人であり、愛する人であり、話し相手でもあれば、昔なじみでもあり、何かを創造したり、周囲に影響を与えたりする複雑な存在意義の束である。
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 病気の「自己責任」を追及し、救われるべき人とそうでない人とを峻別(しゅんべつ)するなどというのは、現実的に不可能であり、思想的にもおぞましいが、そもそも私たちは、普段、一人の人間を見る上で、「健康に気をつけている」ということを、そんなに重視しているだろうか? こんなことを言い出せば、健康オタクの極悪人と、不摂生な好人物は、どっちを救うべきなのかといった馬鹿(ばか)げた問いが無限に立てられることになる。病気の原因には、遺伝や環境の不可避的な要因が大きくかかわっている。しかし、仮にその生活に不摂生があったとしても、あえて言うが、たったそれだけのことが、一人の人間の生の全体を切り捨てる理由にどうしてなるのか?
 アマルティア・センは、「単一基準のアイデンティティーという幻想は、対立を画策する者の暴力的な目的に見合うものであり、殺害や殺戮(さつりく)を指揮する者によって巧みに醸成され、助長されるものだ。」と批判する。他者の違いを恣意(しい)的にスティグマ化して、「彼にある他の好ましい属性を無視」し、社会の対立を扇動する邪(よこしま)な言動は断固として拒絶すべきである。社会の多様性の基礎は、個々人の多様性に他ならない。
 【略歴】1975年、愛知県蒲郡市生まれ。2歳から福岡県立東筑高卒業まで北九州市で暮らす。京都大在学中の99年にデビュー作「日蝕」で芥川賞。近刊は作品集「透明な迷宮」、長編小説「マチネの終わりに」。

=2016/10/23付 西日本新聞朝刊=