ネトウヨによる「捏造ブログである」との中傷記事に対する反論

あるネトウヨのブログが、
当ブログ2016.9.26日記事
について「アホらしい記事」であり、当ブログを「捏造ブログである」との中傷記事を載せました。
それは、
という記事です。
私としては、これは全く根拠のない中傷記事であることから、相手方に私のブログ記事が捏造であるという根拠を提示するように要求し、捏造であるという根拠が提示できない場合は、該当記事を訂正・撤回することも要求しました。何度も何度も要求したのですが、捏造だという根拠が示されることはなく、その度ごとに、私の要求コメントは、証拠隠滅の為、私の発言はもちろん相手の発言も全て削除され、逆に罵倒言葉を浴びせられてしまいました。
結局、相手方は自分の間違いを謝罪するわけでも、認める訳でもなく、また該当記事を訂正・撤回するわけでもなく掲載しつづけていました。しかし、何度目かの抗議のあと、この相手のブログへ行こうとすると「エラー: このリンクは無効です。」となってアクセスできず、ブログ自体が消失していました。
 
ここにもう一度、当ブログ2016.9.26日記事「政府によって徹底的に隠蔽された「関東大震災朝鮮人虐殺事件」の真相」」を再掲載し、さらに補強する資料を提示し、反論し、私のこの記事の正当性を主張することにしました。
 
 
 
まず、相手のネトウヨの記事のコピーを以下に掲載しますのでご覧ください。↓
 
 
クリップ追加
時たまブログに「関東大震災朝鮮人虐殺を政府は徹底的に隠ぺいした」というアホらしい記事で出ていた。
明治大学の教授?か何かのレポートが延々と出されていた。 
    本当にこういった捏造ブログが出て来るのは困ったことだ。
朝日新聞従軍慰安婦強制連行記事と同じ類の記事である。
     小生は横浜の鶴見区潮田で育った。子どもの頃は近所には関東大震災を経験した中年の方々が一杯いた。
小生の父もそうである。関東大震災における朝鮮人虐殺は事実である。父も目撃している。鶴見川の河川敷であるいは旧東海道の生麦周辺で松並木につるされた朝鮮人の遺体を何人も見ている。
実行犯は町会の自警団である。 自警団は町内の男たちと在郷軍人会の壮士によって編成された。朝鮮人が商家を襲って略奪暴行を行っている流言飛語のために結成された。ロス地震の時は黒人が韓国系の商店を襲っている。 当時の鶴見は埋め立て工事の労働者として多くの人々が半島から出稼ぎに来ていた。住居は飯場か自ら作った掘っ建て小屋であった。現在のホームレスのような小屋である。鶴見川の河川敷に作ったのであろう。 多くの朝鮮人が虐殺された。
中には東北出身者も殺された。東北なまりがあったから誤解されたのだ。
     朝鮮人を必死に守ったのが鶴見警察署長である。日本人は総本山総持寺の境内に避難していたが朝鮮人は川崎南加瀬の夢見が丘の高台に逃した。現在は小動物園が建っているところだ。多くの朝鮮人の命が救われた。 その警察署長のお墓と顕彰碑が鶴見のお寺に立っている。 
    虐殺だけを大げさに取り上げてこういった救命救助に立ち上がった多くの人々は黙殺する。
サヨクのよく取るプロバガンダの手口である。
この中でこのネトウヨが言いたいことは、どうも、関東大震災における朝鮮人虐殺は事実だという事は、その当時すでに国民の多くが知っていたのであって、だから「関東大震災朝鮮人虐殺を政府は徹底的に隠ぺいした」は嘘である。という事らしいです。
しかし、ちょっと待ってほしい。
関東大震災における朝鮮人虐殺は事実だという事を国民の多くが知っていたという事と、「関東大震災朝鮮人虐殺を政府は徹底的に隠ぺいした事実があったのかどうか」は全く別な問題だという事です。
「国民の多くが知っていた」は、「関東大震災朝鮮人虐殺を政府は徹底的に隠ぺいしたは嘘である」の証拠にも証明にもなりません。
 

関東大震災直後の9月5日、震災に対応するために各省の代表者で構成されていた「臨時震災救護事務局」の警備部が秘密裏に行なった「朝鮮問題に関する協定」(『現代史資料6 関東大震災朝鮮人』収録)という取り決めの記録があります。
朝鮮人虐殺問題について今後どのように「宣伝するか」について方針をまとめたものです。その中で「内外に対し各方面官憲は鮮人問題に対しては、左記事項を事実の真相として宣伝に努め将来これを事実の真相とすること」として7項目を取り決めています。
これは「これが真相だ」ということではなく、『これが真相だ』と宣伝せよ」ということです。

朝鮮人が殺されたのは混乱のせいであってとくに朝鮮人だからといって迫害されたのではないという事実に反した内容。
朝鮮人の暴行または暴行せしむる事実を極力捜査し、肯定に努むること。風説を徹底的に取り調べ、これを事実として出来得る限り肯定することに努むること」
「海外宣伝は特に赤化日本人及び赤化鮮人が背後に暴行を煽動したることを宣伝するに努むること。」

つまり、流言をなるべく肯定する方向で徹底的に調査しろと言っている。その後も同工異曲の「宣伝事項」が他にもいくつか残されています。
その宣伝の目的を「帝国に不利なる宣伝風評の内外に行なわれることを防止する」ためだと正直に書いています。

つまり、虐殺事件の事実が朝鮮本土や外国に伝わり、その衝撃が日本の朝鮮統治を揺るがすようなことがないように、朝鮮人の側にも落ち度があったという話をつくって問題の真相を隠そうとしたわけです。

これは政府の徹底的な隠ぺいでないのか?
 
また、関東大震災時に戒厳司令部で参謀を務めた森五六氏(当時、中佐)の日記(田原洋『関東大震災と中国人』(岩波現代文庫)があります。

現在の江東区大島付近で93日に起きた、民間人と軍人による中国人虐殺事件(大島町事件)の現場視察の様子です。
外務省、軍、警視庁が顔を合わせての虐殺事件の隠蔽についての協議の様子です。
大島町の虐殺では生存者が一人だけいました。彼が上海に帰って中国メディアに虐殺のことを伝えたために、中国では世論が沸騰し、北京政府が東京に調査団を派遣することになった(王正廷)。
そのため、政府は117日の五大臣会議の席上、中国人虐殺事件を出来る限り隠蔽することを決めた。
森氏の日記の19231214日の日付には「軍事課ニ到リ、大島事件ニ就テ当事者岩波少尉ヨリ希望ヲ聞ク」とあります。岩波少尉とは、大島町事件で民間人とともに中国人を虐殺した、まさに「当事者」です。軍はそれを知っていたし、1980年代に発見された内部文書「関東戒厳司令部詳報」には、その記録も残されていた。にもかかわらず、岩波少尉を訴追することはなかったのです。

これは徹底した隠ぺいではないのか?
 
以上2例を挙げましたが、これだけでも政府が組織的に隠ぺい工作を行っていたことは明らかでしょう。
 
このネトウヨには以上2例を含め何点か例を挙げ、これは政府の徹底的な隠ぺいでないのか問い詰めましたが、一切の返答はなく、すべて証拠隠滅で削除されてしまいました。
人のブログを捏造ブログというなら、その根拠を示さなければならないと思いますが、その根拠も示さず、逆に自分にとって不利な証拠を示されると逃げ回るという卑怯なネトウヨでした。
このネトウヨ関東大震災における朝鮮人虐殺は事実であることは認めているし、全面否定のネトウヨとは違い一定の評価はしていたのですが、後がいけませんね。
それから、このネトウヨの記事の中に、

朝鮮人を必死に守ったのが鶴見警察署長である

>虐殺だけを大げさに取り上げてこういった救命救助に立ち上がった多くの人々は黙殺する。

と有るので、誤解されるといけないので言っておきますが、確かに鶴見警察署長大川常吉朝鮮人、 中国人約400名を警察署に収容保護したのは事実です。また日頃から朝鮮人労働者と接していた日本人の中にも朝鮮人を守った人が少なからずいたのは事実ですが、全体から見れば少数だという事です。

また未だに「朝日新聞ガ-」とか、「サヨクのよく取るプロパガンダの手口だ」とかも言ってますが、これは完全にブーメランで根拠も提示せず勝手にデマ、捏造を撒き散らすネトウヨ、リビジョニストのよく取るプロパガンダの手口だと言えるでしょう。
 
しかしネトウヨってどうして自分の間違いを認めることができないんでしょうかね?
私は当該記事の訂正と撤回だけを求めていたのであって、ブログそのものの削除消去を要求したわけではないんですけどねえ。
自分の間違いは絶対に認めたくないために、当該記事だけの訂正撤回要求には応ぜず、ブログ全体を削除消去してしまったようです。
ネトウヨの「絶対に認めないぞ病」は重症ですね。何処かの総理と一緒です。
このネトウヨ、ほぼ毎日更新してたようだし、折角、8年も続けてきたブログだったのにねえ。
まあ、また新たにブログを起ち上げ、別人を装ってまた再登場するんでしょうけど。
 
 
 
 
最後に問題となった記事2016.9.26日記事「政府によって徹底的に隠蔽された「関東大震災朝鮮人虐殺事件」の真相、を以下に再度掲載しておきます。


政府によって徹底的に隠蔽された「関東大震災朝鮮人虐殺事件」の真相

1100の証言がいま伝えてくれること
西崎 雅夫




政府による徹底的な隠蔽

「顔を血で真赤に染めて後手に縛られた一人の男が、林檎箱の上に引き据えるように腰かけさせられていた。大勢で取り囲んでいたにきまっているが、その人々の印象はぼやけてしまっている。縛られていた男の、一点を見据えていた眼が忘れられない。
〔略〕その男が朝鮮人であることは、少年の私にも自然に分かっていた。爆裂弾を投げつけたとか井戸に毒を入れて回っているとかいう“不逞鮮人”の噂は、もう9月2日には私も聞かされていたのではないかと思う」木下順二『本郷』講談社、1983年)
1923年9月1日に発生した関東大震災時、現在の文京区大塚で被災した劇作家・木下順二が目撃した光景である。
東京だけでも6万人以上の死者を出したといわれるこの震災に乗じるように、「朝鮮人が火つけをしている」「朝鮮人が井戸に毒を入れている」などの流言蜚語が流れた。
この噂を真に受けて警戒した住民たちは自警団を結成、これに軍隊も加わり、多くの朝鮮人や中国人が虐殺された。その数は数千人とも言われているが、実際に何人の方が犠牲になったのか、じつは震災から93年がたった現在でも詳細はわかっていない。
その要因のひとつとして、当時の政府の徹底した事実の隠蔽があげられる。
次の2つの証言を見比べてもらいたい。当時尋常小学校5年生の生徒が、震災直後に書いた作文である。
「3日に伯母さんから「朝鮮人が火をつけて歩く」というお話をきいて僕は驚いた。するとその夜「わあっ」というさわぎがあちこちから起こり、同時に「ぢゃんぢゃん」と半鐘が鳴り出した。間もなく「ずどん」とピストルの音がした」
「3日に伯母さんから「しっ火がある」というお話をきいて僕は驚いた。するとその夜「わあっ」というさわぎがあちこちから起こり、同時に「ぢゃんぢゃん」と半鐘が鳴り出した。間もなく「どしん」となにか崩るる音がした」
上が元の作文、下が検閲後に発行された作文集『子供の震災記』(目黒書店、1924年)に所収された作文である。「「朝鮮人が火をつけて歩く」というお話」が「「しっ火がある」というお話」に、「「ずどん」とピストルの音」が「「どしん」となにか崩るる音」にあらためられているのがわかるだろう。
これは、私が証言を集める中で偶然、検閲前の『子供の震災記』を発見したことにより明らかになった改竄である。本書ではこのような改竄が全編にわたって徹底的に行われている。
一般に出回っている検閲印の押されたものだけを読んでも、朝鮮人虐殺についてはなに一つわからないようになっているのだ。

虐殺の証言とともに歩く 両国

私は「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」「一般社団法人ほうせんか」という市民運動に参加している。
この会は1982年に発足して以来さまざまな活動をしてきた。2009年には朝鮮人虐殺が行われた現場近くの墨田区八広に追悼碑を建てた。そして毎年9月には荒川河川敷で追悼集会を行っている。
私たちは、追悼碑の見学に訪れた市民団体をはじめ、高校生・大学生などのグループに向けて、虐殺が行われた現地を実際に歩くフィールドワークも行っている。そんな中でときどき、企業関係からもフィールドワークを依頼されることがある。
たとえば大阪に、「同和・人権問題企業連絡会」という団体がある。同和問題をはじめとするさまざまな差別の解消に向け、「人権を尊重する企業づくり」に取り組むとともに、企業の立場から「人権が確立した社会の実現」をめざす団体だ。そこに所属する企業の人たちが、研修の一環として追悼碑を訪れるのだ。
このフィールドワークに私が関わるようになってからもう10年以上になる。回数としては、大小の規模の差はあれ、100回ではきかないほど実施している。
フィールドワークはまず、墨田区両国の横網町公園へ行く途中から始まる。両国国技館の北西にあった旧御蔵橋跡が最初の解説場所である。当時の写真(御蔵橋上で縛られて遺棄された遺体の写真・下)を見せながら目撃証言を紹介するのが常だ。
「5~6人の朝鮮人が後手に針金にて縛られて、御蔵橋の所につれ来たりて、木に繋ぎて、種々の事を聞けども少しも話さず、下むきいるので、通り掛りの者どもが我も我もと押し寄せ来たりて、『親の敵、子供の敵』等と言いて、持ちいる金棒にて所かまわず打ち下すので、頭、手、足砕け、四方に鮮血し、何時しか死して行く」(成瀬勝・当時20歳)
両国横網町公園は、関東大震災時には陸軍被服廠跡の広大な空き地があり、ここに避難した3万8千人が焼死した場所だ。現在ここには、関東大震災東京大空襲で亡くなった16万3千柱の遺骨が納められた納骨堂と慰霊堂があり、その隣に1973年に建立された「朝鮮人犠牲者追悼碑」がある。その碑の前でも目撃証言を紹介する。
「被服廠跡のわずかの空き地で血だらけの朝鮮人の人を4人、10人ぐらいの人が針金で縛って連れてきて引き倒しました。で、焼けボックイで押さえつけて、一升瓶の石油、僕は水と思ったけれど、ぶっかけたと思うと火をつけて、そうしたら本当にもう苦しがって。のたうつのを焼けボックイで押さえつけ、口々に『こいつらがこんなに俺たちの兄弟や親子を殺したのだ』と、目が血走っているのです」(浦辺政雄)

虐殺の証言とともに歩く 旧四ツ木

次いで電車で移動し、荒川放水路土手近くの京成八広駅で降りる。2分ほど歩くと、土手下に「関東大震災時 韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑」がある。すぐ近くの土手にあがると、そこは旧四ツ木橋があった地点だ。
震災時、この旧四ツ木橋は火災を逃れた避難民が集中した。同時にここは、荒川放水路開削工事や街中の工場で労働に従事していた多くの朝鮮人もまた多く避難した場所でもある。ここで自警団と軍隊による虐殺の目撃証言を紹介する。
「たしか3日の昼だったね。荒川の四ツ木橋の下手に、朝鮮人を何人もしばってつれて来て、自警団の人たちが殺したのは。なんとも残忍な殺し方だったね。日本刀で切ったり、竹槍で突いたり、鉄の棒で突き刺したりして殺したんです。女の人、なかにはお腹