沖縄ヘイトを考える(下) 偏見生むデマ次々と
沖縄ヘイトを考える(下) 偏見生むデマ次々と
今年6月、ヘイトスピーチ対策法が施行された。罰則なしの理念法である。保護対象が「適正に居住する本邦外出身者」とされるなど問題点も少なくない。とはいえ、わずか数年前まで「我が国には深刻な差別は存在しない」というのが政府の公式見解であったことを考えれば、差別の存在を認め、それが不当であると断じたのだから、一歩前進であると私は考えている。恐怖によって沈黙を強いられているヘイトスピーチの被害当事者のためにも、そして社会への分断を食い止めるためにも、法的整備は必要だった。
ところで、同法が国会で審議されているときから、ネットを中心に奇妙な言説が目立つようになった。
「米軍出ていけ」はヘイトスピーチ-。
実際、ヘイトスピーチ問題を取材している私のもとへもどう喝めいた“問い合わせ”が相次いだ。「沖縄の米軍差別をどう考えるのか」「辺野古の基地反対運動もヘイト認定でいいんだな?」。それ以前から「首相を呼び捨てで批判するのもヘイトスピーチ」といった的外れな物言いも存在したが(そのような書き方をした全国紙もある)、同法成立が必至となるや、ネット上では新基地建設反対運動も「取り締まりの対象」といった書き込みが急増したのである。
無知と無理解というよりは、ヘイトスピーチの発信者たちによる、恣意(しい)的な曲解と勝手な解釈であろう。これに煽(あお)られたのか、それともさらに煽りたかったのか、同法が「米国軍人に対する排除的発言が対象」と自身のSNSに書き込んだ自民党衆院議員もいた。
そもそもヘイトスピーチとは、乱暴な言葉、不快な言葉を意味するものではない。人種、民族、国籍、性などのマイノリティーに対して向けられる差別的言動、それを用いた扇動や攻撃を指すものだ。ヘイトスピーチを構成するうえで重要なファクトは言葉遣いではなく、抗弁不可能な属性、そして不均衡・不平等な社会的力関係である。
これに関しては、同法の国会審議において、幾度も確認されたことだった。法案の発議者である参院法務委員会委員の西田昌司議員(自民党)は私の取材に対し、「米軍基地への抗議は憲法で認められた政治的言論の一つ。同法の対象であるわけがない」と明確に答えた。
結局、基地反対運動とヘイトスピーチを無理やりに結び付けようとする動きには、基地問題で政府を手こずらせる「わがままな沖縄」を叩(たた)きたい-といった意図が見え隠れする。基地反対派住民を「基地外」と揶揄(やゆ)した神奈川県議も同様だ。
そう、問題とすべきはむしろ沖縄へ向けられたヘイトである。
うるま市在住の女性が米軍属に殺害された事件でも、ネット上には被害者を愚弄(ぐろう)し、沖縄を嘲笑するかのような書き込みがあふれた。
「事件を基地問題に絡めるな」「人権派が喜んでいる」。ナチスのカギ十字旗を掲げて「外国人追放」のデモを行うことで知られる極右団体の代表も、この事件では、あたかも女性の側に非があるかのような持論をブログに掲載した。ツイッターで「米軍基地絡みだと大騒ぎになる」「米軍が撤退したら何が起きるか自明だ」などと発信した元国会議員もいる。これら自称「愛国者」たちは、簡単に沖縄を見捨てる。外国の軍隊を守るべきロジックを必死で探す。なんと薄っぺらで底の浅い「愛国」か。
1年前には人気作家の沖縄蔑視発言が話題となったが、この手の話を拾い上げればきりがない。「沖縄は基地で食っている」「沖縄の新聞が県民を洗脳している」「沖縄は自分勝手」「ゆすりの名人」-。
不均衡で不平等な本土との力関係の中で「弾よけ」の役割を強いられてきた沖縄は、まだ足りないとばかりに、理不尽を押し付けられている。差別と偏見の弾を撃ち込まれている。しかも、そうした状況を肯定する素材としてのデマが次々と生み出されていく。
歴史を振り返ってみれば、外国籍住民へのヘイトスピーチ同様、沖縄差別も決して目新しいものではない。日本社会は沖縄を蔑み、時代に合わせて差別のリニューアルを重ねてきた。アパートの家主が掲げた「朝鮮人、琉球人お断り」の貼り紙が、いま、「日本から出ていけ」といった罵声や横断幕に取って代わっただけだ。
「沖縄は甘えるな」といった声もあるが、冗談じゃない。倒錯している。沖縄に甘えてきたのは本土の側だ。見下しているからこそ、力で押し切ればなんとかなるのだと思い込んでいる。実際、そうやって強引に歯車を動かすことで、沖縄の時間を支配してきた。辺野古で、高江で、沖縄の民意はことごとく無視されている。
私はこれまで、ヘイトスピーチの“主体”を取材することが多かった。だが、被害の実情を見続けているうちに、加害者分析に時間をかける必要を感じなくなった。差別する側のカタルシスや娯楽のためにマイノリティーや沖縄が存在するわけではない。
これ以上、社会を壊すな。そう言い続けていくしかない。差別や偏見の向こう側にあるのは戦争と殺りくだ。歴史がそれを証明しているではないか。(ジャーナリスト)