民主主義を壊す「コスパ第一主義」という病日本は「奴隷天国」化している

民主主義を壊す「コスパ第一主義」という病


日本は「奴隷天国」化している

「永続敗戦」レジームで対米従属を強化する日本。いつ主権を回復できるのか? 本当の民主主義は、どのような形で実現できるのか?
日本を代表する2人の知性、思想家の内田樹氏、政治学者の白井聡氏による『属国民主主義論』が、このほど上梓された。
「属国化」「コスパ化」「消費者化」「数値化」「階級化」などをキーワードに徹底討議した本書から一部抜粋してお届けする。

大人を子どものままでいさせればいい

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尊皇攘夷ならぬ尊米攘夷の「永続敗戦」レジームで対米従属を強化する日本。「コスパ化」「消費者化」「数値化」「幼稚化」「階級化」などをキーワードに、自発的隷従の論理と心理を抉り出す
白井 聡(以下、白井):消費社会の問題、人間の消費者化の問題について話し合いたいと思います。教育問題も民主主義の問題も、困難の源は、結局ここにあると感じるからです。
米国の政治学者ベンジャミン・バーバーに、『消費が社会を滅ぼす?!――幼稚化する人びとと市民の運命』(吉田書店)という著書があります。「消費社会化で人々が幼稚化しているという現実があるけれども、それは資本家側が意図的にそうし向けているのだ」という内容です。
内田 樹(以下、内田):消費者はマーケットによって意図的に幼稚にさせられているというのは、そのとおりですね。
白井:この本は副題が「幼稚化する人びとと市民の運命」となっています。テレビCMを見て、すぐに影響を受けて消費する層は子どもや若者ですが、人口の高齢化が進むと、その効果が落ちてしまう。だったら、高齢者を含めて全部の大人を子どものままでいさせればいい。資本の側はそういう発想になるわけです。バーバーはそこで、「人々が幼稚化した場合に、果たしてデモクラシーに未来はあるのか」という問題提起をしています。
内田:確かにその危険は大きいですね。近代市民社会論の基本原理は、「市民が自己利益の安定的な確保のために、私利私欲の追求を部分的に自制して、公的権力に私権の一部を委譲する」ということなわけですけれど、この原理が成り立つのは、市民がひたすらエゴイスティックに私利私欲を求めるのと、私権の一部を公権力に委ねて共同体を安定的に保つのと、どちらが自己利益を増大させるうえで有利かについて、正しい判定ができるくらいには知恵が働くということが前提とされているからですね。市民がバカで、「社会なんかどうなってもいいから、オレだけよければそれでいい」というふうに考えたら、近代市民社会は成立しない。
でも、まさに今の世界では、市民がどんどん幼稚化して、「短期的な私利だけを優先させていると、場合によっては長期的には間尺に合わないことが起きる」という条理がわからなくなっている。このまま市民としての最低限の知性が失われてしまうと、確かに「デモクラシーに未来はない」ですね。

「買い物以外、この世の中で大事なことはない」

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内田 樹(うちだ たつる)/ 思想家、武道家神戸女学院大学名誉教授 1950年東京生まれ。思想家、武道家神戸女学院大学名誉教授。東京大学文学部仏文科卒業、東京都立大学大学院博士課程中退。専門はフランス現代思想、武道論、教育論、映画論など。凱風館館長、多田塾甲南合気会師範。著書に『ためらいの倫理学』(角川文庫)、『街場のアメリカ論』(文春文庫)、『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書、第6回小林秀雄賞受賞)、『日本辺境論』(新潮新書、新書大賞2010受賞)、『日本の反知性主義』(編著、晶文社)、『街場の戦争論』(ミシマ社)、『日本戦後史論』(白井聡氏との共著、徳間書店)などがある。第3回伊丹十三賞受賞(撮影:ヒラオカスタジオ)
白井:バーバーの問題提起は内田先生や私が所々で意見表明してきたことと同じではないかと感じます。こうした重要な出来事については、同時多発的に世界中でいろいろな人が気づくことがありますから。
学生たちを見ていて思うのは、「今、若い人たちが世界から受け取っているのは、『買い物以外、この世の中で大事なことは何ひとつない』というメッセージではないか」ということです。18歳に選挙権が付与されましたが、学校の社会科の先生が、「君たちはもうすぐ投票権を得るんだ。投票というのは大事なことなんだ。国会は国権の最高機関であり、君たちは主権者だ」と一生懸命言ったとしても、生徒たちは学校の外に一歩出た瞬間、「この世の中には買い物以外に重要なことは何ひとつありません」というメッセージを、四方八方から受けるわけです。絨毯爆撃に遭っていると言ってもいいくらいです。そうなると先生が何をいくら言っても、虚しいことになってしまう。
ジョージ・カーリンという米国のコメディアンが「どうでもいいモノを借金してまで買いまくるようにさせたいのだから、そりゃ賢くなってもらっちゃ困るだろ!」とズバリ言っていましたが、そういう形で「愚民化」あるいは「B層化」を進め、その対象になっている人たちからできるだけ多くを搾り取ることが、消費社会におけるマーケティング戦略の根本になっている。この構図の中では、「市民」なるものはどこにも存在しません。
内田:社会契約というのは、自律的・合理的に思考できる市民が存在するということが前提になっているわけですけれど、今の消費社会はそういう「合理的に思考できる市民」を育成する気がないですね。みな「どうやってカネを儲けるか」しか考えていない。いや、儲けたければ、儲けてもいいんですよ。ただ、その場合でも、目の前にあるものに飛びついて、それを費消し尽くしてしまったら、先ゆきカネが儲からなくなるという見通しが立てば、現時点での欲求を自制するはずです。「間尺に合わない」ことはしない。でも、今はそれができなくなっている。「間尺に合わない」という言い方自体、ほとんどもう耳にすることないですもの。

商品の背後に残る血の痕跡を消していく消費社会

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白井 聡(しらい さとし)/ 政治学者、京都精華大学人文学部専任講師 1977年東京生まれ。政治学者、思想史家、京都精華大学人文学部専任講師。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業、一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程単位修得退学。博士(社会学)。著書に『未完のレーニン』(講談社選書メチエ)、『「物質」の蜂起をめざして――レーニン、<力>の思想 増補新版』(作品社)、『永続敗戦論』(太田出版、第35回石橋湛山賞、第12回角川財団学芸賞受賞)、『日本劣化論』(共著、ちくま新書)、『「戦後」の墓碑銘』(金曜日)、『戦後政治を終わらせる』(NHK出版新書)などがある(撮影:梅谷秀司)
白井:消費社会についてはさまざまな定義がありますが、私なりにこれを定義するなら、「消費の対象の背後にある血なまぐさい現実について、人々が一切想像しなくなっている状態」ではないかと思います。
たとえば、ここにスマホがあります。これを買って、便利に楽しく使うことはみなやっている。一方で「このスマホがどこでどうやって作られたのか」という想像は、おそらく大部分の人がしていない。アップルから製造を委託された台湾企業が、中国で労働問題を起こして話題になりましたけれども、部品までさかのぼれば、どのスマホもそんなふうにして世界中の工場を使って作られ、その中にはひどい搾取も含まれているでしょう。
さらに素材までさかのぼるなら、スマホは金属や石油製品でできている。石油の採掘には、血なまぐささがつきまといます。石油の利権をめぐって世界的に武力闘争が行われてきた歴史があり、今もリビアやナイジェリアあたりの石油のパイプラインではISなどの武装ゲリラの襲撃を受けていて、施設を守るために世界の石油メジャーが民兵を雇って、襲撃してくるゲリラを撃ち殺しているわけです。
なべてわれわれが普段使っているあらゆる商品の背後には、そういった血なまぐさい現実というものが存在する。しかし現代の消費社会においては、その現実は消費者から隠されている。商品の背後に残る血の痕跡を消していくことに大変な努力を払うのが、消費社会の特徴です。
ディズニーランドなどは、まさにそうした消費社会のシンボルと言っていいでしょう。日本では1980年代前半、消費社会がまさに爛熟期を迎えようとする時代にオープンしました。「背後にある現実を隠しきって、消費者に夢の国を提供する」というディズニーランドの戦略が、見事に時代の波に乗ったわけですね。
ちなみに、以前旅行代理店の方と話した時に「どうして東京行きの格安高速バスの終着点が東京ディズニーランドであることが多いのか」という話を聞いたことがあります。2012年に関越道で大事故を起こしたバスは、ディズニーリゾート行きでした。それは、ディズニーランドに行きたい客が多いからだけではなく、他の場所に比べて大型車の駐車料金が安いからだそうです。ですから、過酷なシフトで疲れ切ったバスの運転手が、ディズニーランドの駐車場の車内で死んだように寝ている。「夢の国」から一歩出た先にはそのような現実がある。このとてつもないアンバランスが事実上のバランスとなって成り立っているのが、現代の消費社会ですね。

おカネを使うことだけが生きている実感

白井:高橋若木さんという若い政治学者の方が、こういう話をしていました。今の若年層は、宿命論的世界観のなかにとらわれている、と。その宿命とは、端的にカネの多寡のことなのか。だとすれば、それこそ与沢翼氏のように、なりふり構わずひたすらカネを追求して、宿命を覆すという手もありますが、そういう雰囲気でもない。消費が自己の価値表示だという感覚も、バブル時代の遺物として軽蔑の対象になっていると思われます。
ですから、今非常につかみどころのない状態になっているのではないでしょうか。顕示的消費で自己実現するのが幸福だなどという感覚は、若年層の経済状態からしてあり得ない。しかし、その一方で消費社会のロジックから脱出しつつあるのかと言えば、そうでもない。
いずれにせよ、おそろしく受動的になっているということであり、この受動性こそ消費社会が作り出したものかもしれない。
そういうなかで、新しい価値観を打ち出そうとしている人もいます。栗原康君という僕の大学時代の後輩がいて、大杉栄の研究者なんですが、早稲田の大学院に進んで博士課程まで修了したものの、諸々の事情があって、博士論文が出せないでいるんです。今は非常勤講師で、年収が80万円ぐらいしかない。
内田:80万円か……。壮絶だなあ。
白井:最近では『現代暴力論』(角川新書)や『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』岩波書店)など、書いたものがかなり話題を集めていて仕事が増えてきたでしょうから、収入も上がってきたかとは思うんですが、基本的に引退した親の年金に頼って暮らしている状態だと自身で書いています。その彼が、『はたらかないで、たらふく食べたい』(タバブックス)というけしからん題名の本を書いているんですよ(笑)。
内田:題名から察するに、彼は「働いていない、稼いでいない」という、自分の置かれた状況を肯定しているわけですね。
白井:彼自身はそうなんです。しかしそれは、今の日本の一般的価値観とはぶつからざるをえない。彼が本の中で書いていたエピソードが大変印象的です。博士課程の院生時代に、結婚まで考えた交際相手の女性がいたそうなんです。高校の教員をしていた人で、向こうもその気はあったらしいのだけれども、やはり「この人はいったい、いつになったらちゃんと働くのだろうか」という、不安と不満を持っていた。
2人は家が近くて、あるとき一緒に近所のショッピングモールに行った。でも栗原君はおカネがないので、何も買わない。彼女が、「あなた、何か買わないの?」と聞くと、栗原君は「カネがないから」と言う。「どうしておカネがないの?」「働いてないから」「どうして働かないの?」「働きたくないから」という、このやり取りの煮詰まった感がすごいんですが、そこで彼女が問い詰めるわけです。
「なぜあなたは働きたいと思わないの? 働かなければ、ここで買い物だってできないでしょう」と。そうしたら栗原くんは、「なんでそんなにここで買い物をしなければいけないの?」と聞き返した。すると彼女が、そこでぶち切れたというんです。「なんのために私みたいなサラリーマンが毎日、嫌な仕事をしているのか、わかっているの? それはこうやってショッピングセンターに来て、買い物をして、それで憂さを晴らすためなのよ!」と叫んだ、と。
結局、栗原君と彼女はそれで破局するわけですけれども、これはけっこうすごい話だと僕は思っています。こんなにニヒルな発言はないわけですよ。彼女は自分がやっている仕事に本質的には何も意義を見いだしていないし、生きがいを実感することもできていない。
でも、なんとかそれを耐えられるものにしているのは、ここでこうやっておカネを使うということができるからだ。「おカネを使うことによって憂さを晴らす、それだけが生きている実感を持てる瞬間だ」と言っているわけです。
彼女にしても普段であれば、そんな寒々しい考えを口に出したりはしないでしょう。ところが栗原君という価値観の違う他者に苛立ったことで、無意識に本当の思いを、恐ろしい真実を口に出してしまった。おそらく今の日本の勤労者のうちでかなり多くの割合の人が、この女性と同じ実感を持って生きているんです。それが事実だろうと思うんですよ。
「なんという不幸な国なのか」と戦慄しました。他方で、栗原君が言っているのは、カネがあろうがなかろうが、欲望を捨てなきゃいけない謂れはない、ということです。
内田:カネが人間的価値の査定基準になると、「払ったカネに対してどれだけの見返りがあるか」ということについて神経質になりますね。費用対効果、いわゆる「コスパ」というやつですね。これ、ずいぶんうるさく言われるようになりましたね。

コスパ」という病

白井:確かにインターネットのサイトなどを見ていても、やたらに「コスパ」という言葉が出てきますね。
内田:コストパフォーマンスというのは、支払った貨幣に対して、それにふさわしい財貨やサービスが手に入ったかどうか、それを気遣うことですよね。でも、もとが貨幣という数値なので、「それにふさわしい」ものも数値で示されないと、「費用対効果」がわからない。100円払ったのに、200円分のものが来たら、「コスパよかった」、80円分だったら「コスパ悪かった」というふうに判定するわけですから、手に入れるものも数値的にわかりやすく値札をつけて並べておかないといけない。だから、どういう活動をしていても、先方が貨幣を出してきた場合には、こちらも「数値で価値を表示できるもの」を交換に差し出さないといけないことになる。おカネを出してきた相手に、「なんだかわけのわからないもの」を出すと反社会的だということになる。
よく「幸運のペンダント」とか「教祖さまの気が入った水晶玉」とかにとんでもない値段がついているのを「よろしくない」と怒る人がいますけれど、あれは別にそれに効能がないと知っているから「詐欺だ」と批判しているわけじゃないと思うんです。デジタルな貨幣に対して「効果が数値的に表示されないもの」を交換に差し出すことに腹を立てているんだと思う。たぶん。だって、「幸運のペンダント」では絶対に幸運になれないなんて、誰にも証明できませんからね。
私が運営する合気道の道場でもそうなんですよ。女性の門人が「少年部を作りたい」と言うので、「どうぞ」ということで始めてもらったんです。小さな子どもたちを集めて合気道を教えた。そのときに彼女から「級を出してもいいですか」と聞かれた。合気会の公式な級位は5級からなんですけれど、子どもたちですからローカルな級位を作ってもいいかなと思って、「いいよ」と言いました。そして、10級から6級まで作って、級が変わると帯の色が変わるシステムを採用した。それからしばらくして、今度は彼女が困った顔をして、「あの……親御さんから、6級から10級のような大雑把な級では困る。もっと細分化してくれという要求があったので、10のCから6のAまで、15段階に分けた」という報告を受けました。
僕はこれにはさすがに驚きました。だって、子どもが武道の稽古をちゃんとやっていれば、その変化なんて親にはわかるじゃないですか。体が大きくなってきたとか、よく飯を食うとか、よく寝るとか。見てればわかるでしょ。でも、それでは満足できないらしい。子どもの心身の変化を数値的に表示することを要求してきた。客観的な査定を受けて、それを数値で表示してもらわないと投下した月謝のコスパがわからないから。
この話をゼミでしたら、たまたまゼミ生にバイトでスイミングクラブのインストラクターをやっている子がいて、「うちも同じです」と言っていました。昔は、「はい、泳げる子たちはこっち。泳げない子はこっちへ行って」みたいなアバウトな分け方で、泳げない子にはビート板を使って練習させたりしていたわけです。ところが今は一口に泳げないと言っても、たいへんに精密な段階にわけられている。「顔を水につけられた」「耳まで水につけられた」「頭全部が水の中に入った」「足を離した」……などなど、泳ぎ始めるに至るまでにいくつもの細かい検査項目があって、それを個人のカードに記してゆく。「スイミングスクールで30分間レッスンしたことで、この子はこれだけ能力が向上しました」と目に見えるかたちで、外形的に示してあげないと、親が納得しないらしい。これってまさに「コスパという病」ですよね。
白井:「60分のワンレッスンに1万円払っている。それなら1万円分の成果が出なければおかしい」という感覚ですね。そのために異常に細かいチェック表を作って、その場その場で価値の交換がきちんと等価で行われているかをチェックしている。今日ではそのチェックがどんどん厳しくなっていき、ちゃんと価値が確認できないような商品は「コストパフォーマンス的に論外」ということになってしまう。

「等価交換でなければ」という観念に取りつかれている

内田:これまで「カネの話じゃない」領域にまで市場原理が入ってきましたね。教育もそうです。合気道やスイミングスクールと同じです。これだけの授業料を払った、これだけの学習努力をした。だったら、その見返りに学校は何をくれるのか。それを客観的なかたちで明示せよ、というようなことを学生や保護者が言い出すようになってきた。そして、みんな「コスパという病」に罹患しているから、できるだけ少ない負担で、できるだけ少ない学習努力で、教育「商品」を手に入れようとする。60点取ればある教科で2単位得られる。だったら、その教科で70点や80点を取るのはまったく無駄だということになる。授業をさぼれるだけさぼって、試験やレポートではぎりぎり60点を狙ってくる学生は、「同じ商品だったら、1円でも安いところで買うのが当たり前でしょ!」と信じているその親と同じ価値観に律されているわけです。
最悪なのはシラバスですね。あれは完全に商取引の発想です。履修する前に、「この授業を半期15週受けるとこんな教育効果が上がります。何月何日にはこんな内容の授業をして、それを受けるとこんな知識や技能が身につきます。何月何日には……」ということを詳細に書かないといけない。そうしろと、文科省からうるさく命令されている。でも、これは完全に商品の仕様書そのものでしょう。「教育は商品じゃない」ということをいくら僕が声を大にして言っても、世の中の仕組みは少しも変わらない。
白井:はい、何年か前にシラバスに「到達目標」を明記することが徹底化されるようになりました。本当にうんざりする話ですね。こんな状況で僕はあと何年、教師業を続けられるのかと思います。幸い今の職場では、行き過ぎた要求に晒されたりはしていませんが。
内田現代日本に取りついた病ですよ。

「教育は商品ではない」

白井:ですから、僕は大学の授業で「教育は商品ではない」という話を徹底的にやっています。経験上、ちゃんと聞いていた学生はみんな納得してくれます。コスパに取りつかれるというのは、言い換えれば「すべての交換は等価交換でなければならない」という観念に取りつかれることです。等価交換とは「狭義の交換」であって、互酬・贈与といった別の形態の交換を含む「広義の交換」があることを想像できない状態になってしまっています。僕の考えでは教育とは贈与です。実は、等価交換という資本主義的経済行為は、広義の交換の連鎖によって成り立っている社会全体があってはじめて、その一角で営まれることができるわけです。
このことが想像できなくなった原因は、やはり消費社会化ではないかと思うのです。というのは、消費者の立場に立ったとき、誰しもが最大の関心を持つのは、自分の出した貨幣価値と等しいものが返ってくるか、ということだからです。出したカネよりももっと価値あるものが返って来るならなお良いということになる。
で、こういうダンピング的交換も繰り返されているうちに、それは「正価」だということになる。そのときに、どうしてこの商品がこの価格になるのか、ということはまったく関心の外になります。その商品の背後で、一体どんな無茶があって、どんな環境破壊やら人権抑圧やら搾取やらがあって、この「コスパ」になるのか、考えない。そういった「血の痕跡」はきれいに拭い去られていますから。消費社会化が徹底されて商品の背後を誰ひとり考えなくなってしまったならば、労働者に無限のコストパフォーマンスが追求されて低賃金に苦しむのは、自業自得だということになります。それは、労働者が消費者として活動する局面での行為の帰結にすぎない。
内田:今、日本の企業で「経営努力」というと、ほとんど「コストカット」のことでしょう。 企業だけではなくて、大学でも、「効率化」とか「経営努力」といった言葉ばかりが耳について、「いかにして少ない人数で多くの仕事をこなしていくか」を求められている。教員たちが過労で潰れてゆくのは当然ですよ。