文庫版『帰ってきたヒトラー』(河出書房新社)

文庫版『帰ってきたヒトラー』(河出書房新社

本書をより美味しく召し上がっていただくために――2016年6月映画公開の『帰ってきたヒトラー』、原作文庫解説を公開。

もしナチスが復活したとして、彼らが最初から非理性的な暴言を吐きまくるような存在ならば、脊髄反射的な人たちでも悪の拡充を防げる公算が高い。たとえば、いわゆるネオナチのようなゴロツキたちには対応可能だろう。しかし「ホンモノ」が現れてしまったらどうなのか? かつてナチスが、ヒトラー自身がそうだったように、彼らの最初の語りかけは「いやぁ、最近のガソリンの値上げはキツいっすよねえ……」というような、党派や主義主張を超えて誰もが納得し、ついうなずいてしまう内容なのだから。


実際に『わが闘争』の語り口を見ると、逆に『帰ってきたヒトラー』のモノローグ展開の凄さ、リアルさがよくわかる。両者はよく似ている。しかし単に形式的に似せているのではない。周囲の森羅万象を、オレ的な文脈ですべて徹底的に再解釈しつくす。そして言語的に定義する。すると周囲に一種の擬似世界が生じる、というヒトラーの「根本原理」が、作中で見事に機能しているのだ。ある意味、これが『帰ってきたヒトラー』の最大の価値かもしれない。レトリックの面白おかしさだけで満腹になってしまうのはもったいない。ちなみに「オレ的な文脈」というのは私利私欲への誘導ではない。オレには世界がそのようなシステムとして見えるから仕方ないでしょ、という首尾一貫した観点のことで、だからこそ強靭なのだ。

ヒトラーは徹底的に「オレ文脈」でのみ発言する。ゆえに本来的な意味で会話が嚙み合わない。しかし、相手にとって都合のいい誤解をさせるだけの余地も微妙に存在する。その結果、一種の精神的な「商談」が成立してしまう……これは、客観性を呑み込むほどに巧緻な主観を戦術的に活用した、特異で強力なコミュニケーション術といえる。

先段、ヒトラーはつねに現実のすべての再解釈を行い続けた存在だと書いた。ではその再解釈は何のためか? 一義的には、「既存の価値観の打倒」のためだ。では何故打倒するのか? 「既存の価値観は不当な既得権や寡占体制の温床だから」だ……と、このようなナゼナゼ問答システムを使って突き詰めてゆくと、やがてその先に見えてくるのは、
「持たざる者」が、世界に対してどれだけ効果的に怨念を晴らせるか
という根本動機である。自覚・無自覚は問わない。「持たざる者」を「非リア充」に置き換えてもよい。そのように考えると、ヒトラーナチスの物語が、そしてその基本ダイナミズムが、本質的にまったく過去の遺物などではないことが理解できる。だからこそ本書『帰ってきたヒトラー』は、現代社会にて異様な説得力を放つのではないだろうか。それは黒い光のようなものだ。



実はヒトラーは「帰ってきた」のではなく、クラウド的に分散した形で「ずっとそこに居て、待っていた」と言えるかもしれない。自覚と目的意識を取り戻すための決定的なきっかけを待つ状態。第二次世界大戦の直接体験世代が完全に消え去りゆく今後、復活はより容易になるだろう。そのとき「彼」はどんな顔をしてやってくるのか。そして社会はそれを予見・知覚できるのか。作家の、そして読者の想像力の質がこれまで以上に真摯に問われる時代が、すぐそこに迫ってきているのだ。