百地先生、中学生や高校生に誤導はいけません。

百地先生、中学生や高校生に誤導はいけません。

以下一部を引用


産経に「中高生のための国民の憲法講座」という連載コラムがある。昨日(4月5日)その第40講として「首相の靖国参拝と国家儀礼」と標題する百地章さんの論稿が掲載されている。
この方、学界で重きをなす存在ではないが、右翼の論調を「憲法学風に」解説する貴重な存在として右派メディアに重宝がられている。なにしろ、「本紙『正論』欄に『首相は英霊の加護信じて参拝を』と執筆した」と自らおっしゃる、歴とした靖国派で、神がかりの公式参拝推進論者。その論調のイデオロギー性はともかく、学説や判例の解説における不正確は指摘されねばならない。とりわけ、中学生や高校生に、間違えた知識を刷り込んではならない。


百地さんは、「憲法解釈について最終的判断を行うのは最高裁判所です(憲法81条)。しかし、首相の靖国神社参拝について、最高裁が直接、合憲性を判断した判決はありません。」という。これは、明らかな誤りとの指摘を慎重に避けつつ意図的な誤解を誘う、不正確な記述である。百地論稿では、あたかも司法は首相の公式参拝問題にまったくなにも言っていないごとくであるが、決してそうではない。
岩手靖国違憲訴訟仙台高裁判決(1991年1月10日)は、憲法判断到達にさしたる困難なく、その「理由」において、最高裁判例とされる目的効果基準に拠りながら、首相と天皇靖国公式参拝違憲と明確に判断した。今のところ、この判決が靖国参拝に関する憲法判断のリーディングケースと言ってよい

第2点。靖国公式参拝問題での最高裁の判断はまだないが、近似の事件として靖国神社への公費による玉串料奉納を違憲とした愛媛玉串料訴訟大法廷判決(1997年4月)がある。違憲判断に与した多数意見が13名。合憲とした少数意見はわずかに2名だった。その少数意見組の一人が、現在日本会議会長の任にある三好達である。
玉串料及び供物料は、例大祭又は慰霊大祭において、宗教上の儀式が執り行われるに際して神前に供えられるものであり、献灯料は、これによりみたま祭において境内に奉納者の名前を記した灯明が掲げられるというものであって、いずれも各神社が宗教的意義を有すると考えていることが明らかなものである。これらのことからすれば、県が特定の宗教団体の挙行する重要な宗教上の祭祀にかかわり合いを持ったということが明らかである。」
「本件玉串料等の奉納は、たとえそれが戦没者の慰霊及びその遺族の慰謝を直接の目的としてされたものであったとしても、世俗的目的で行われた社会的儀礼にすぎないものとして憲法に違反しないということはできない。」
ここには目的効果論における「目的」の捉え方の指針が示されている。国や自治体が行う行為に複数目的があった場合、世俗的な儀礼の目的のあることをもって、宗教的意義を否定することはできない、としているのである。
このことは、玉串料奉納にだけあてはまるものではない。公式参拝には、より強く妥当すると言えよう。
「安倍首相の公的資格における靖国神社参拝は、たとえそれが戦没者の慰霊及びその遺族の慰謝を直接の目的としてされたものであったとしても、世俗的目的で行われた国家的儀礼にすぎないものとして憲法に違反しないということはできない。」
第3点。百地さんは「昭和60年(1985年)8月に中曽根康弘内閣が示した「首相の靖国神社公式参拝は合憲」とする公式見解があります」という。
これは、公式参拝合憲化を狙って、「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」(靖国懇)をつくり、その「報告書」に基づいての見解である。愛媛玉串料訴訟の最高裁大法廷判決以前のものであり、岩手靖国参拝違憲訴訟高裁判決もなかったときのもの。こんなに古いものを持ち出さざるを得ないのだ
第4点。百地さんは、首相の靖国参拝を国際儀礼として、「国際社会では、互いに自国のために戦った戦没者の勇気を称え敬意を表する。これはたとえ旧敵国同士であっても同じ」としている。
あたかも、靖国神社は、国際的にどこにでもある普遍的な戦争犠牲者追悼施設と描いている。
とんでもない。
靖国神社は墓地ではない。
戦争犠牲者への追悼の施設でもなく、極めて特異な軍事的宗教施設なのだ。
天皇への忠誠を尽くしての死者を英霊として「敬意の対象」とし、顕彰することを本質とする。
そのために、戦没者を祭神として祀る宗教施設である。
歴史観、戦争観、天皇観において、宗教法人靖国神社は、かつての別格官幣社の立場をまったく変えていない。
到底、どこの国にもある施設ではない。
外国元首に参拝を要請することなどできる場所ではないのだ。